サムライブルーの原材料BACK NUMBER
岡山一成が等々力に帰ってきた理由。
“岡山劇場”次の夢を託す場所。
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byTsuneyo Sakai
posted2018/01/10 08:00
奈良クラブでのリーグ最終戦、ファンに退団の挨拶をした。岡山一成のキャリアは、ここで終わりではない。
札幌を退団した後、一度は引退が頭をよぎった。
その後は激動だった。横浜で2年半プレーして大宮アルディージャ→マリノス(復帰)→セレッソ大阪→フロンターレ→アビスパ福岡→柏レイソル→ベガルタ仙台→浦項スティーラーズ(韓国)→コンサドーレ札幌と歩んだ。どのクラブに愛されたのも、自分が納得してプレー先を決め、すべてを捧げようとしてきたからだ。
「このチームでやります、というのは、逆に言ったら他のチームじゃないという選択をするわけやないですか。どうしてこのチームでやるのか。その理由を見つけて選択してきたつもりです」
セレッソなら地元で活躍したいという夢、川崎や仙台ならJ1に引き上げたいという夢、柏ならJ1で恩師・石崎信弘監督を男にしたいという夢……それぞれの地に、自分がやるべき理由があった。
そして2012年シーズン後にJ1の札幌を退団すると、彼はJ2でもJFLでもなく、当時地域リーグ関西1部の奈良クラブに移籍する。だがこの決断を下すまでに、長い時間を要した。奈良からも一度打診があったものの、断っている。
「だってね、札幌で全然勝てなくて1年でJ2降格が決まったんです。降格って、凄く痛手を負うんですよ。1年ずっとサンドバッグ状態で打たれ続けて、最後に降格の宣告を受けるんでダメージがメッチャ残るんです。契約満了になって、自分が次に何をしたいのかすらよう分からんかった」
もうサッカーはええかな。
待望の第一子が誕生し、ずっと妻と赤ちゃんの傍にいた。サッカーよりも家族と一緒の生活を求めていた。
兄貴分と慕ってきた松田直樹の突然の死。
現役を続けるきっかけとなったのが2013年8月、松本山雅のホームスタジアム「アルウィン」で開催された松田直樹を偲ぶメモリアルゲームへの参加だった。
岡山はミスターマリノスの松田を、兄貴分とずっと慕ってきた。松田は2010年限りでマリノスから契約非更新を通達され、当時JFLだった松本山雅に移籍を果たした。シーズンを戦っていた8月、練習中に倒れて帰らぬ人となった。岡山はずっと悲しみを抱えていた。
マツくん。
そう言葉に出して、フーッと息をついてから彼は語り始めた。