ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
馬場、猪木、鶴田、藤波らを超えろ!
中邑真輔が近づく史上初のWWE王座。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byGetty Images
posted2017/09/25 08:00
WWEのブタンでトップレスラーの一員となった中邑。ベルトを獲得すれば、日本人レスラー前人未到の快挙となる。
名前を“消された”猪木、名前を残した鶴田。
馬場のライバルであるアントニオ猪木は、現在のWWEの前身であり、当時“世界3大王座のひとつ”としてNWAと並び称されたWWFヘビー級王座を'79年11月に徳島でボブ・バックランドを破り獲得している。しかし、同年12月のリマッチが無効試合に終わり、猪木がタイトルを返上するとその事実はうやむやとなり、現在WWE歴代王者の公式レコードから猪木の名前は消えている。
馬場と猪木の王座奪取は、アメリカプロレス界にとっては遠い日本で一瞬だけ起こった出来事であり、両者ともに事実上“日本限定の世界王者”だったのだ。
'80年代に入り、米メジャーの世界王者としてアメリカマットで試合をするという、馬場や猪木もできなかったことを成し遂げたのが、ジャンボ鶴田だ。
鶴田は'84年2月に蔵前国技館でニック・ボックウィンクルを破り、当時の世界3大王座のひとつAWA世界ヘビー級王座を獲得。その後、同年5月にセントポールでリック・マーテルに敗れるまで、本場アメリカで防衛サーキットを行なった。戴冠期間は3カ月弱のショートリリーフ的な世界王者ではあったが、アメリカ本土で複数回のタイトル防衛戦を行った日本人は、現在に到るまで鶴田ただ1人の偉業だ。
なお、AWA世界王座は'90年2月に新日本の東京ドーム大会で、マサ斎藤もラリー・ズビスコを破り獲得している。この時、AWAはすでに規模を大幅に縮小しており、ベルトの価値もインディー団体のそれと同等となっていたが、日本のファンにとって「AWA世界王座」というブランドが持つ“響き”は根強く、マサ斎藤が勝利した後は、ドームで初めてウェーブが巻き起こるほどの盛り上がりとなった。
フレアーと対戦した藤波は2015年に王座認定。
鶴田のライバルとも言える藤波辰爾も、世界王者として米メジャーでタイトルマッチを行った経験がある数少ない日本人のひとりだ。
藤波は'91年3月21日、新日本プロレスの東京ドーム大会で、IWGP&NWAダブルタイトルマッチとしてリック・フレアーと対戦。グラウンド・コブラツイストで勝利し、NWA世界ヘビー級王座を奪取したが、試合中にオーバー・ザ・トップロープの反則があったとして、フレアーは王座移動の無効を主張。
同年5月19日に米国フロリダ州でのWCWビッグマッチで再戦が行われ、この時はフレアーが勝利したため、藤波のNWA王座奪取は幻に終わったものと思われた。しかし、2015年に藤波がWWE殿堂入りした際、あらためて'91年3月の王座獲得が確認され、現在は正式レコードとして認められている。