プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
「オレの方が、より新日本プロレスだ」
オカダに挑む柴田勝頼の危険な香り。
posted2017/03/29 08:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
柴田勝頼は柴田勝久の息子である。だが、勝頼は父・勝久のプロレスの試合を見たことがない。
何年も前のことだが、柴田に父親のことを聞いたことがある。
「親父の試合は見たことないんですよ、ビデオでも。小さい頃、一緒にプロレスの会場に行った記憶もありません」と柴田は言った。
父親は、柴田が生まれる2年前に、レスラーをやめてしまったから、実際に見たことがないのは当然だが、映像でも見たことがなかったのだ。
父親はアントニオ猪木に請われて1972年、新日本プロレスに助っ人としてやってきた。
「ここに柴田を迎えに来たんだよなあ」
中南米を旅しているとき、給油で立ち寄ったグアテマラの空港で猪木はその頃を思い出して、ふとつぶやいた。
勝久は長髪にひげを蓄えた風貌でメキシコやグアテマラでは悪役で、流血ファイトも辞さなかった。
だが、その勝久の目は優しく、ファンがサインを求めると笑顔で丁寧に写真撮影にも応じていた。
柴田の父・勝久は猪木とよくタッグを組んでいた。
新日本プロレスが旗揚げしたころは、よく猪木とタッグを組んだ。
新日本ではもちろん悪役ではなかったが、蹴って、殴って、相手をコーナーに押し詰めて首を両手で絞めあげるというファイトスタイルは変えていなかった。
新日本プロレスにレスラーがそろったころ、勝久は大きなケガをすると、自分の役目は終わったと1977年2月、身を引くように引退、レフェリーに転身した。勝頼が生まれると、松戸でおもちゃ屋も始めた。
当時は「おもちゃのシバタ!」という掛け声がレフェリーの勝久にファンからよく飛んだものだった。
今のファンにとって勝久はレフェリーの印象しか残っていないのかもしれない。