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松山英樹&石川遼のキャディ大対談!
「2人は同じ価値観を持っている」
posted2016/01/01 10:30
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph by
Yoichi Katsuragawa
それぞれが歩む道がふとした時に交錯する。人生には不思議な巡り合わせがある。
松山英樹と石川遼。若くして海を渡り、米国で戦う2人の若者は、紛れもなく日本の男子ゴルフ界をリードする同学年の戦友だ。
彼らの傍らにはもうひとつ、別の同い年のサイドストーリーがある。
2人が米国で従えるエースキャディは、それぞれが同学年、それどころか大学時代にともに同じ釜の飯を食った仲。松山のバッグを担ぐ進藤大典(しんどう・だいすけ)さんと、石川とコンビを組む佐藤賢和(さとう・よしかず)さんは、ともに1980年生まれの35歳。かつて東北福祉大ゴルフ部で腕を磨き、宮里優作、岩田寛は同い年のチームメイトだった。
大学卒業後、ツアーキャディとしての経歴をスタートさせた2人。松山が進藤さんとコンビを組んでから約2年半が経過した2015年の春、石川が自身のプロ生活で3人目となる専属キャディに佐藤さんを据えたことで、米国で再び職場をともにすることになった。
米ツアーの2015-16年シーズンはクリスマス、年末年始で小休憩。今回は、この束の間のオフにお邪魔して、互いの思いを語っていただいた。同級生同士の和やか対談で明かされた、プロキャディのキャリア、PGAツアー、松山と石川の関係性と未来とは――
進藤「キャディを始めたのは、宮里優作がきっかけ」
進藤「僕がゴルフを始めたのは中学の終わり。京都府の綾部市で生まれ、3年の夏に全寮制の(高知)明徳義塾に編入したんです。初めて仲が良くなった友達がゴルフ部で『じゃあ、おれも』という形で」
佐藤「中3でゴルフを始めた人って多いよね。おれもそう。地元の宮城県で野球をやっていて、受験勉強をしていた時期に父が練習場に連れて行ってくれた。『止まった球なんて簡単に打てる』と思っていたら、全然当たらなくてムカついて始めた(笑)。入学した東北高校はいまでこそ名門(宮里藍らを輩出)だけど、僕らの時はそうでもなかったんです。東北からは全国大会に2校行けたけど、当時ゴルフ部がある学校が4校くらいしかなかった」
進藤「明徳義塾では大相撲の朝青龍関と同級生でした。寮が一緒で。入学当時は日本語が喋れず、体も細くて。いまの(松山)英樹くらいだったなあ」
佐藤「イメージないねえ」
進藤「相撲よりもプロレスラーみたいな体型だった。当時は『ドルジ』(本名)って呼んでいたけどね。いまはもちろん『横綱』だけど」
進藤「東北福祉大に進んだ理由は……僕たちの世代は、とにかく星野英正(同大学OBで日本ツアー3勝)さんに憧れていた。星野さんはアマチュアの頃から雑誌に載ったりしていて。ルックスも良くて、オーラもあった」
佐藤「ヒーローだったよね。僕にとってはゴルフ環境のいい福祉大は地元だったし、星野さんがいたことも大きかった。強い人たちに会って、人脈を拡げたかった」
進藤「キャディを始めたのは、同級生のスーパースター・宮里優作がきっかけ。高校3年生の夏場には、優作が福祉大に入ると噂を聞いていたんだ(宮里は大阪桐蔭高出身)。高校卒業後は、アメリカか、オーストラリアか、福祉大だって」
佐藤「優作と清田太一郎(日体大出身・ツアー未勝利)が、同い年では本当にすごかった」
進藤「スイングもキレイ、打つ球もスゴい、まさに別格という感じで。1年生の夏に『キャディをやってみない?』と言われたのが始まりで、4年の時に『卒業後もお願いしたい』と。僕もプロになりたい……と考えていた時期があったけれど、隣にいる優作がトッププロと遜色ないプレーをしていたから、逆に『僕には無理』と“分からせて”くれた」
佐藤「僕は卒業してからも少しやったけれど(佐藤さんは卒業後にスウェーデンに留学するなど研修生としてプロを目指した)、大ちゃんの言うように、『優作には到底及ばない』と思っていた。だから“見切り”は早かった。そのあと、大ちゃんが優作とコンビをやめる時に、久しぶりに優作からメールが来たんだ。『キャディ、やってみる?』と軽い感じで(笑)。2006年のはじめ。人生のターニングポイントが来たなあと思った」