記事を
ブックマークする
仰木彬が三原脩から、星野仙一が島岡吉郎から「受け継いだもの」を追って【92年日本シリーズで野村ヤクルトに渡された「詳細なデータ」秘話も】
「魔術師と言われることを、三原さんも仰木さんも嫌っとったんですよ。『魔術で野球ができたら苦労はいらんわい』ってね」
昭和から令和までプロ野球を70年近く取材し続けたスポーツライターの浜田昭八さんは、プロ野球史に“魔術師”の異名を残した唯一の師弟をそう回想する。
「三原野球と言われるが、それがどんな野球なのか、的確に捉えた論評はないんや。三原さんは、その時のチーム状況に応じて選手の特性を見抜き、適材適所の用兵をやった。ワンポイントリリーフもアテ馬も、必要が生んだ知恵なんです」
選手の顔ぶれによって、野球がものすごく変わった。
仰木自身も三原の戦術に対し「正攻法で行ける時には変わった戦術は使わない。不足を補い、監督同士の戦いで何をしてくるかわからないと意識させる」とインタビューで明かしている。西鉄時代は稲尾和久、中西太ら強力なメンバーの力で押すことができた。大洋ではエース秋山登を中心に、小兵の選手を超二流に仕立て上げて初優勝。近鉄、ヤクルトとチームが変わる度に色が変わる野球は、毎日オーダーが変わる仰木の猫の目打線の源流でもあった。
「だから選手の顔触れによって、野球がものすごく変わる。昨日まで顔も知らんような選手が突如スタメンに入ってしまうんや。その反面、2人とも使えるピッチャーは周囲に何と言われようとも、酷使ともいえるぐらい集中的に使った。“花は咲くときが咲かせ時”とか言ってね」
三原は「人を見て法を説け」と選手の長所を見抜きそれを伸ばした。西鉄入団時は投手だった仰木に対しても、球の回転が素直で細身、俊足という特徴を活かし、セカンドへ。以降、何かにつけて教えを説いた。
全ての写真を見る -1枚-「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています