――梨田さんにとっての仰木彬さんは、引退する現役最後の1988年、1年だけの監督と選手の関係でした。仰木監督というのはどんな存在だったんでしょう。
梨田 じつはオレ、その前のシーズン限りで引退しようと思っていたんだよ。右肩を手術して、アキレス腱の状態もよくなかったからね。もうチームには貢献できないと思っていたら、仰木さんに「ナシな、これはまだ新聞発表もしていない話なんだけど、来年はオレが監督をやることになったんだ」と言われてね。「えっ、そうなんですか。おめでとうございます」と返したら「いやいや、そんなこと言うな。お前、今年で辞めるつもりだろう」と……だから素直に「はい」と答えたら、「そんなこと言わずに手伝え」と頼まれてね。「いや、今の僕にはいい仕事はできませんよ」と断ったんだけど、「いい、いい、選手としてはそんなのせんでいいから、オレと選手たちのパイプ役になってくれ」と畳み掛けてくるんだよ。仰木さんはオレが高校から近鉄へ入団したときには近鉄のコーチで、それ以降、ずーっと一緒だったからさ。もう、ノーとは言えんよな。それでもう1年、現役を続けることにしたんだ。
星野さんは瞬時にカッとなる、ゲリラ豪雨みたいなもん。
――与田さんはプロ1年目の監督が星野仙一さんでした。社会人出身とはいえルーキーには刺激が強すぎたんじゃないですか。
与田 いっつも怒ってましたからね……星野さんは「オレは怒っとらん」と仰ってましたが、そんなわけないですよ。誰が見ても怒ってました(笑)。ただ、星野さんのあの怖さ、厳しさがあったからこそ、試合中の対戦相手に対しての怖さ、緊張感を感じずに済んでいたのかもしれません。だって、マウンドでバッターと対戦するよりもベンチの星野さんと向き合うほうが苦しいんです。もしかして、それが星野さんの戦法だったのかな(笑)。
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