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「サンショーに取り組むことで変われた」三浦龍司は世界陸上6位入賞にも“悔しさ”<目指すパリ五輪でのメダルとの距離は?>

2023/10/22

 今年8月にハンガリー・ブダペストで開催された世界陸上選手権。数々の日本選手が活躍を見せた中に、また一つ、歴史を刻んだ選手がいる。3000m障害の三浦龍司だ。6位入賞を果たしたがこれは同種目で日本史上初。2021年の東京五輪でもやはり日本史上初の入賞となる7位となっており、あらためて世界の上位に伍していける地力を示した。「東京はある意味、勢いで残せた成績だと思うんですけど、今回は自分の走りや能力に自覚を持った上での成績なので、明らかに地力もついたなって思えます」

 と手ごたえを語る。

 地力の向上を感じているのは、次の言葉にも表れている。

「今回はほんとうに悔しいというのがいちばんでした」

 それは戦えると思えたから発した言葉だった。

 3000m障害は、400mのトラックに設けられた障害を計28回、水濠を計7回跳び越えるレース。スピードや持久力に加え、障害を越えるための跳躍力や技術など幅広い能力を求められる。そして数ある陸上の種目の中でも、日本の選手にとって世界の壁が厚い種目の一つにあげられてきた。三浦も言う。

「国際大会の場面で見ても、今までいちばん希望のないというか、世界と対抗できない種目と言われていました」

小学生の時から「適性がある」と言われていた。

 ではなぜ三浦は2つの世界大会で日本初の入賞を成し遂げ、風穴を開けることができたのか。

 彼はすでに小学生の頃、通っていた陸上クラブのコーチに適性があると言われていたという。

「長距離が得意でしたし跳躍力もあったので、それらがいかせる、合ってるんじゃないかということだったと思います」

 高校に進むにあたって、本格的に3000m障害を目指すことを決め、強豪である洛南高校に進学。年を経るごとに好成績を残していった。

「入った頃、種目としての立ち位置がものすごくマイナーでしたし、他のところで勝負できない選手が選ぶ種目というイメージがありました。世間の注目度を抜きにしてというか、顧問の方が力を入れて指導してくださいました」

 消去法としてではなく自ら選択して取り組む三浦をスペシャリストとして育てようという指導者の存在があった。

 同時に、成長することができた理由は三浦本人の意識にあった。

「自分はサンショー(=3000m障害)に出会えたことで変われた人間です。自分を日本のトップレベルだったり国際大会というところで戦える選手にしてくれた、そういう種目に出会えた」

 興味を持ち、好きになることができたのと成績を伸ばしていったこと、それが連鎖するように好循環を生んだ。それが大きかった。

「だからこそ、この種目を続けたいなって思いますし、勝負していきたいと思います」

どうしてもパリで結果を出したい。

 東京五輪後は、ヨーロッパ遠征をはじめ国際大会の経験を重ねてきた。その中で一定の成果を上げられたことから自信を深め、世界の上位に割って入っていける青写真も具体化していった。世界選手権では6位入賞を果たしてなお、悔しさも募ったのは、「自分はもっと上に行ける、やれる」という自分の可能性への確信が生まれているからこそだろう。次の言葉は象徴的だ。

「僕の希望みたいなものはどんどんふくれています」

 種目への愛着があるからこう語る。

「僕は3000m障害に取り組むことで変われたので、この種目に出会って変わってくれる選手が多くなればうれしいです。日本を変えるみたいな大それたことは言えないですが、選手として結果を出すことがいちばん自分にできることかなと思います」

 それが3000m障害の地位向上にもつながる。

 トラックシーズンは終了したが、三浦にはもう一つの役割が待っている。箱根駅伝だ。

「今年はキャプテンを務めさせてもらっているので、ふだんの練習から後輩をしっかりと見る視野を持ち、先輩から受け継いだものを後輩にもつなげたいという意識があります」

 そして来年にはパリ五輪が控える。

「パリは今までの国際大会とは一線を画すものがあるので、どうしてもそこで結果を出したいです。上位入賞、メダルへの気持ちは強いですね。そこへの距離は近くなっている実感があります」

 3000m障害の歴史を塗り替えてきた三浦は、種目への愛着を武器に、より大きな果実を見据える。

三浦龍司Ryuji Miura

2002年2月11日、島根県生まれ。洛南高卒業後、順天堂大に進学。東京五輪では日本人初の7位入賞。今年6月には自身の日本記録を更新し、DLファイナルでは5位。168cm、56kg。

photograph by JIJI PRESS

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