2010年、横浜高校野球部の部長だった小倉清一郎は、いつもの毒舌で部員たちをこき下ろした。
「こんなに負けるチームはねえよ。お前たちは史上最弱だ」
前年秋に発足した新チームは、秋の神奈川県大会で初戦敗退。'10年春も3回戦で姿を消した。筒香嘉智という主砲の引退に伴って打線の破壊力は失われ、ずば抜けた投手がいるわけでもなかった。
エースナンバーを背負っていたのは2年生右腕の齋藤健汰。その球を受けていたのが同じく2年生の捕手、近藤健介だった。
現在は横浜市内で不動産会社に勤務する齋藤が言う。
「史上最弱と言われて気分はあんまり良くなかったけど、逆にプレッシャーを感じることなく、みんな、のびのびとプレーできたところはあったかもしれませんね」
小倉は辛辣な言葉とは裏腹に、決してチームを見放してはいなかった。夏の大会を迎えるにあたり、敵チームを徹底的に分析。緻密なデータをバッテリーに託していた。
それに基づく近藤のリードに、制球の良い齋藤が応える。ノーシードの横浜は1回戦から勝ち上がり、準々決勝では桐蔭学園に、準決勝では横浜隼人に逆転勝ち。試合のたびにまとまりと勢いを得て、ついに決勝の舞台までたどり着いた。
だが、最後に越えるべき壁が高かった。
記憶を手繰り寄せていた齋藤が苦笑する。
「相模は別格でしたね。相模がいなければって、ずっと思ってました」
東海大相模。この時期、戦力の充実ぶりは頭抜けていた。前年秋の関東大会で優勝し、明治神宮大会では準優勝。4年ぶりのセンバツ出場も果たした。プロ注目の一二三慎太がエースを務め、打線に関しては「1番から9番まで全員強打者」(齋藤)。33年ぶりの夏の甲子園出場という悲願成就を目前にして、ナインの士気も高かった。
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