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「小林繁さんが『40万円くらいでガタガタ言うな!』と」若菜嘉晴が阪神で学んだ“人生勉強”「小林さんの人生はネトフリでドラマにできますよ」
posted2026/08/17 11:04
江川卓とのトレードから奮闘を続けた小林繁、そして若菜嘉晴も阪神で優勝することのないままチームを去った
text by

元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph by
Bungeishunju
「江川トレード事件」、「西武ライオンズ誕生」、「箕島高春夏連覇」、「江夏の21球」……このすべてが起きたのが1979年である。今にして思えば、日本野球界の新たな勢力図の兆し、そしてスポーツ文化の変容の萌芽がこの年に見えていたとも言える。1980年『Number』創刊の前年、日本野球界の地殻変動を関係者への取材で振り返る大型連載! 阪神で奮闘した小林繁と若菜嘉晴だったが、優勝は遠いままにふたりはチームを去る。〈連載『日本野球1979』第16回「江川トレード編」/はじめから読む〉
1979(昭和54)年、九州から阪神タイガースにやってきた25歳の若菜嘉晴は新天地で大きく飛躍を遂げた。初めて打率3割を打ち、オールスターゲームに出場し、ダイヤモンドグラブ賞も受賞した。
同期の真弓明信は1番ショートで活躍してチームの看板選手になり、現役を引退したあとには監督も務めた。
「阪神が野球をうまくしてくれました。4年連続でオールスターにも出場することができました。年上のピッチャーがみんな個性的だったので苦しいことはたくさんありましたけど、いい勉強になりましたね」
阪神時代は人生の勉強をさせてもらった
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安仁屋宗八、山本和行、江本孟紀、小林繁など実績のあるピッチャーは一筋縄ではいかなかった。
「野球の技術もそうですけど、人間同士の付き合い、人生の勉強をさせてもらった4年間でした。野球以外の部分も磨かないといけないと思いました。もし、クラウンライターの選手のままだったら、流されていたかもしれない」
退団するにあたって球団との軋轢が生まれ、1983年にはニューヨーク・メッツ傘下のチームでプレーすることになったが、日本で彼の実力を評価する人がいた。シーズン途中に若菜が横浜大洋ホエールズに移籍することになった裏には、長嶋茂雄の存在があった。

