甲子園の風BACK NUMBER
準決勝で「送りバントのサインに知らんぷりして」あの池田に敗れるも…浪商・牛島和彦が甲子園に感じていた“使命”「それでも、責任は果たしたぞと」
posted2026/09/17 11:03
1979年、最後の夏を迎えた浪商・牛島和彦。全国制覇を期待されるなか、初戦から厳しい戦いが待ち受けていた
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元永知宏Tomohiro Motonaga
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AFLO
1979(昭和54)年春のセンバツで準優勝した浪商は、大阪大会決勝でPL学園を下して甲子園に乗り込んだ。和歌山大会を勝ち上がった箕島とともに優勝候補と考えられていた。
「センバツで準優勝したし、大阪大会でPL学園に勝ったんだから、当然、日本一を期待されました。僕たちは『甲子園で優勝しないと』と思っていましたし、まわりの人は『浪商の優勝で決まりや』という雰囲気でしたね」(牛島)
8月9日、浪商は1回戦で上尾(埼玉)と対戦することになった。
初戦で思わぬ大苦戦
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「上尾のエースの仁村徹(中日ドラゴンズなど)はアンダースローでした。昔は今ほど相手チームのデータが揃っていたわけじゃないけど、嫌な予感がしました。仁村は埼玉大会でほとんど点を取られていないし、もともと浪商はアンダースローに弱いんですよね。
試合が始まってみたら、仁村はものすごくコントロールがいい。手も足も出ないくらいに抑えられました。130キロ程度のストレートが速く感じました」
3度目の甲子園出場となる牛島だが、この日は体調がすぐれなかった。
「実は『勝たないと』と思って緊張していて、前夜はあまり眠れなかったんです。朝起きたらお腹が痛くて、コンディションはよくなかったですね」
1回裏に上尾に1点を奪われ、浪商は劣勢を強いられた。0対2で迎えた9回表ワンアウト一塁の場面、牛島は「これはもう無理かな……負けるのか……」と思いながら打席に入った。
「それまでの3打席は、ストレートで攻められ、変化球で泳がされていました。アウトコースの球を打ってもヒットになりそうにない。狙うとしたらカーブ。インコースに来たボールを打つしかないと決めました。それで打ち取られたら仕方がないと腹をくくりました」
1年生の春から試合に出場し続けた牛島の経験が生きた瞬間だった。

