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「小林繁さんが『40万円くらいでガタガタ言うな!』と」若菜嘉晴が阪神で学んだ“人生勉強”「小林さんの人生はネトフリでドラマにできますよ」
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byBungeishunju
posted2026/08/17 11:04
江川卓とのトレードから奮闘を続けた小林繁、そして若菜嘉晴も阪神で優勝することのないままチームを去った
「読売ジャイアンツの監督から離れていた長嶋さんを大洋の監督にしたいという動きが水面下であったようです。大洋の監督だった関根(潤三)さんは長嶋さんと関係がよくて、その下準備というか、ひそかにチームづくりをしていたと聞きました。その頃の大洋にはベテランのキャッチャーしかいなかったんですよ」
関根とも長嶋とも親しい、ニッポン放送の深澤弘アナウンサーから若菜に「日本に帰ってくる気はあるか」という打診があった。若手の頃に若菜のクビをつないでくれた長嶋が、再び日本でプレーするきっかけをつくってくれたのだ。
大洋での日本復帰
「阪神の球団代表からも『移籍に問題なし』という連絡をもらい、大洋のユニフォームを着ることになりました。結局、長嶋さんが大洋の監督になることはありませんでしたけど、僕は長嶋さんのひと言でまたプロ野球に戻ることができました」
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7月にチームに合流した若菜。1984年からは正捕手として大洋の投手陣をリードした。その後、日本ハムファイターズに移籍し、37歳まで現役を続けた。プロでは1387試合に出場し、1037安打(打率.267)、54本塁打という成績を残した。
「キャッチャーとして1000試合に出て、1000安打以上を打ったことはひそかな誇りですね。
長嶋さんのおかげで選手寿命が伸びましたし、引退したあとにコーチにもなれました。あの時に大洋でプレーしていなかったら、福岡ダイエーホークスの王貞治監督のもとでコーチを任されることもなかったでしょうね。
長嶋さんに認めてもらい、王さんのもとで城島健司の育成に携われたおかげで、70歳を過ぎた今でもプロ野球解説者として働かせていただいているわけです」
2度のアメリカでの学び
19歳でアメリカに留学し、29歳になってメッツ傘下のチームでプレーした2度のアメリカ経験も、その後の若菜に大きな影響を与えた。


