バレーボールPRESSBACK NUMBER

「医学部志望」「理系職で安定した人生を」春高バレー出場部員の意外な進路…“私学スポーツ強豪校”の部活改革「監督&コーチは元日本代表」 

text by

田中夕子

田中夕子Yuko Tanaka

PROFILE

photograph byYuko Tanaka

posted2025/12/30 11:05

「医学部志望」「理系職で安定した人生を」春高バレー出場部員の意外な進路…“私学スポーツ強豪校”の部活改革「監督&コーチは元日本代表」<Number Web> photograph by Yuko Tanaka

愛工大名電高校バレーボール部のミーティング風景。3年ぶりに春高バレー出場を決めた

 古賀氏の指導を求めて愛工大名電に入学した選手もいる。2年生リベロの植木結生だ。小学5年生からバレーボールを始めた植木は、中学2年時に春高バレーを見て「カッコいい」と憧れた。もともと勉強が好きだったことに加え、当時から「自分よりもすごい選手やうまい選手はいっぱいいるから、バレーだけじゃなくて勉強もできないといけない」と進路に悩ませていたところ、高校時代までバレーボール部に所属していた父の助言で愛工大名電の存在を知った。

「実は、お父さんが古賀さんのプレーに憧れていたんです。『あの人に教えてもらえる環境に行けたらいいな』とずっと話していたので、名電に入って、古賀さんに教えてもらうことが夢でした」

 第一線で活躍してきた古賀氏の助言は高校生に大きな刺激を与え、植木も2年生ながら正リベロを務めるまでに成長を遂げた。

長続きしなかった大器がついに覚醒

ADVERTISEMENT

 古賀氏ら全国コーチの存在はいうまでもなく名電バレーの飛躍に一役買っているが、やはりベースにあるのは“文武両道の志”。3年生のミドルブロッカー山崎緑利(えんり)は、その恩恵を受けた一人だ。

 身体能力は抜群で、小学1年生から総合格闘技、バスケットボール、陸上、野球とあらゆる競技を経験してきた。しかし、一方で何をやっても長続きしなかったという。

「緊張に弱くて、試合に出るのが嫌だったからバスケは小学6年生になると絶対試合に出なきゃいけないと決められていたのでやめたんです。陸上部でも試合に出たくないから、本気で走らず適当にやっていて。野球も友達に誘われて体験に行ったらいきなりホームランを打てた。『こんなに簡単なんだ』と思って入ってみたら基礎練習ばっかりで面白くない。身長がデカかったので、中学2年からは何となくバレーボール部に転部しました」

 中3時には愛知県代表に選出。「(元選手の)北川先生に教えてもらえたらミドルとしてうまくなれる」と入学を決め、愛工大名電でも1年時からレギュラーの座をつかんだ。ただ、「そこまでやる気があったわけではない」と振り返る山崎はバレーボールにも勉強にも消極的だった。

「そもそも中学の頃は勉強する習慣がなかったので、勉強自体が嫌だった。名電に入ってからも、最初はクラスでも(成績が)40人中36位ぐらいでした」

 転機は高校3年になってから。勉強好きのクラスメートと仲良くなったことで、クラスで10位まで成績が上がった。学業での成功体験は、バレーボールへの向き合い方にも相乗効果を生み、才能を大きく開花させることにつながった。北川監督が掲げた“文武両道”の意味を実感したのが、春高バレー出場をかけた愛知大会決勝の星城戦だったという。

「相手に追い上げられて、今までだったら焦ってミスしていたんです。でも北川先生から『試合は楽しむことが一番だ』と教えられてきた。焦っても楽しくない。追い上げられても焦らず、最後までいつも通りプレーすることができました」

【次ページ】 「バレーはメジャーじゃなかった」理工学部内定の3年生

BACK 1 2 3 4 NEXT
#愛工大名電高校
#北川祐介
#古賀幸一郎

バレーボールの前後の記事

ページトップ