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プロ野球PRESSBACK NUMBER
広岡達朗93歳「あの頃は本当に楽しかった」じつは“幸せだった”ヤクルト監督時代「あのマニエルがバントを…」広岡と衝突した外国人選手の“献身”
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKYODO
posted2025/12/22 17:01
1978年、ヤクルトスワローズ監督時代の広岡達朗。球団初の優勝に向けて駆け抜けた日々を、広岡は「幸せだった」と述懐する
今も記憶に残る「マニエルのセーフティバント」
杉浦亨(現・享)について話を聞いていたときのことだ。突然、広岡が言った。
「杉浦のサヨナラホームランはチームに勇気を与えた。あの試合は実に見事だった」
広岡が口にした「あの試合」とは、9月20日、神宮球場で行われた中日ドラゴンズ戦を指していた。シーズン終盤、優勝を左右する大一番である。杉浦は言う。
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「あの頃は、二段飛びで階段を駆け上がっていくような勢いがありました。ペナントレースの中盤からは、6回ぐらいになると逆転、逆転で勝ち進んでいきましたから。今まではリードしていても、“すぐに追いつかれて逆転されるんじゃないか?”と考えていたのに、この頃はその逆で、たとえリードされていても、“すぐに逆転できるだろう”というムードでした」
一方、水谷新太郎もまた、この年のチームの勢いについて述懐する。
「7月、いや8月ぐらいかな? この頃になると、“優勝できるかも”という思いは芽生えていました。《ラッキーエイト》じゃないけど、たとえ負けていても、8回ぐらいになるといつの間にか逆転しているんです。僕だけじゃなく、きっとあの頃の選手は誰もが、“さぁ、逆転できるぞ”って感じていたと思います。途中、ジャイアンツが首位に立っていたけど、それでも自信は全然揺るがなかった。“絶対に大丈夫だ”って思っていました」
6回と8回の違いはあれど、当時ベンチ入りしていた選手はいずれも、「すぐに逆転できるだろう」と感じていたのだ。あるいは、生前の安田猛にインタビューした際に、彼はこんな言葉を残している。
「あの年は本当にみんながよく打った。だって僕、途中で降板して“お先に”って言って、クラブハウスのお風呂に入っていたら、ピッチングコーチがやってきて、“おい、勝ったぞ!”って、呼ばれたことが2試合続けてあったんだから」
再び、杉浦のコメントを紹介したい。
「みんな勝利のために必死でしたよ。いい結果が出るから、自分のできることは積極的に何でもやっていましたから。今でも覚えているのは、優勝争いが佳境だった頃、カープとの天王山の試合で、マニエルがセーフティバントをやったんです。彼はああ見えて、バントが上手なんです。自発的にやったのか、サインだったのかは忘れてしまったけど、あの場面はすごく印象に残っています」

