- #1
- #2
プロ野球PRESSBACK NUMBER
広岡達朗93歳「あの頃は本当に楽しかった」じつは“幸せだった”ヤクルト監督時代「あのマニエルがバントを…」広岡と衝突した外国人選手の“献身”
posted2025/12/22 17:01
1978年、ヤクルトスワローズ監督時代の広岡達朗。球団初の優勝に向けて駆け抜けた日々を、広岡は「幸せだった」と述懐する
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
KYODO
「あの頃は本当に楽しかった」幸せだったヤクルト時代
継続的に話を聞いてきた広岡達朗へのインタビューも、いよいよ大詰めを迎えていた。時代もテーマもあちこちに飛んだものの、それでも彼の言葉の断片を拾い集めていくと、「1978年のヤクルトスワローズ」が、少しずつ浮かび上がってくる。
取材のたびに自己紹介をして、そのたびに「スワローズ時代について伺いたい」と告げてきた。すると広岡は、しばしばこんなことを口にした。
「私はヤクルトにお世話になった。いい選手に恵まれて、あの頃は本当に楽しかった。何もやり残したことがない。私は幸せですよ」
ADVERTISEMENT
第10章で詳述するが、スワローズ時代の広岡は幸せなエンディングを迎えていない。いや、愛娘である祥子さんの言葉を借りれば、「父は円満退社のできない人」である。現役時代の読売ジャイアンツでは川上哲治監督と、スワローズ退任後の西武ライオンズ監督時代も、GM職を務めた千葉ロッテマリーンズ時代も、フロントと衝突してチームを離れている。
だからこそ、スワローズに対しても、その栄光とは裏腹によく思っていないのではないか?
勝手にそんな推測をしていたのだけれど、広岡はしばしばこの時期について、「楽しかった」「幸せだった」と口にした。特に1978年ペナントレース終盤についての話題となると、その口調は滑らかになった。
――「優勝できそうだ」という手応えはいつ頃、感じたのですか?
「手応え? そんなものは最後までなかったよ。あくまでもあの頃のヤクルトは挑戦者だったから。ただ、ジャイアンツが首位に立ち、何とか食らいついていた頃、“まだまだ巨人を叩くチャンスはあるぞ”と信じていた。長嶋(茂雄)の投手起用はめちゃくちゃだったから、絶対にそのしわ寄せがくる。そんな思いを強く持っていた。だから、“絶対にチャンスはあるぞ”とは考えていたけど、“これで優勝できそうだ”と思ったことはない」
もはや、取材をする上で「心のスイッチ」を気にする必要はなかった。

