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プロ野球PRESSBACK NUMBER
長女が語る父・広岡達朗の実像「全然厳しくない」「子どもの判断を尊重してくれた」神宮帰りの車で聞いた野球論「手だけで捕りにいくからダメなんだ」
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKYODO
posted2025/12/06 12:09
ヤクルトスワローズ監督時代の広岡達朗。当時高校生だった娘の祥子さんにとって、父はどんな存在だったのか
自宅には二台の炊飯器があった。一台は白米、もう一台は玄米用のものである。広岡は玄米を食べ、家族は白米を食べていた。決して家族には強制しなかった。
「私にとっての部活動」神宮球場に通い詰めた高校時代
小学生の頃、祥子さんは広岡に叩かれているという。
「小学校4年、あるいは5年生ぐらいのことでした。兄が弟に意地悪をして、弟が泣いてしまったんです。私は真ん中なので、それには関わらないように黙って見ていたら、父に引っぱたかれました。理由ですか? “黙って見ていて、いい子ぶっているのが気に入らない”という理由です。今でもとんだとばっちりだと思っています」
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祥子さんはケラケラと笑った。
1960年11月に生まれた。1974年、広岡がスワローズのコーチになったときにはすでに中学生となっていた。
「身体を動かすことが好きだったので、中学三年までは器械体操をやっていて、高校ではフィギュアスケートをやっていました。ただ、私の場合は温度差にアレルギーを感じる体質だということが、後でわかりました。夏場にリンクに出ると寒冷じんましんが出るようになって、体質的に合わなかったんです」
ちょうどその頃、広岡の監督就任が決まった。同時に祥子さんの生活も激変する。
「父がコーチだった頃は、私たちも気合いを入れて“よし、応援しなくちゃ”という感じではなかったけど、監督になると決まってからは一生懸命、応援をしました。高校1年まではスケートをしていたんですけど、父が監督になったこともあって高校2年からは帰宅部として、毎試合神宮球場に通うようになりました。私にとって、それが部活動になりました。もうほぼほぼ全試合です。帰りは父と一緒に帰れるので」
スワローズの監督時代、そのほぼすべてにおいて祥子さんは神宮球場のスタンドから、父の雄姿を見届けていたのである。
帰りの車で聞いた“父の野球論”
神宮球場での観戦後、一緒に自宅まで戻る日々が始まった。車を運転する広岡が、その日の試合の感想、選手たちの批評をする。祥子さんは黙ってそれを聞いていた。
「覚えているのは角(富士夫)さん、水谷(新太郎)さんですね。いつも、“下手くそだ”って言っていました。自分がショートだったから、やっぱり内野手が気になるんだと思います。“結局、ラクして手だけで捕りにいくからダメなんだ”とか、“できるだけ身体の正面で捕球すれば、もしも捕り損なっても身体の前にボールが落ちるからアウトの可能性が高まる”とか、そういう話は何度も聞きました」

