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「長髪スーツで歌舞伎町へ」女性にモテモテ…将棋界“消えた名人候補”がいた「まあ、自惚れていましたね」プロ目前の敗北で情緒不安定→放浪
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田丸昇Noboru Tamaru
photograph byNanae Suzuki
posted2025/12/07 11:00
数々の伝説の棋士を生んだ昭和の将棋界。55歳で生涯を閉じた“名人候補だったプリンス”とは
真部の自宅の最寄り駅は、中央・総武線の大久保駅で新宿まで一駅。少年から青年になると、繁華街の新宿・歌舞伎町に足を踏み入れたのは自然なことだった。長髪をなびかせて派手なスーツ姿で出没し、夢中になって遊び回った。奨励会きってのプレーボーイと呼ばれた。
私は新宿のコンパ(大型の洋酒酒場)で真部とたまに飲んだが、カクテルのジンライムが好きだった。
勝てば四段昇段の決戦で早々に戦意喪失し…
真部は三段リーグの3期目に関東で優勝。1971年9月に関西優勝者の森安正幸三段と大阪・阿倍野の関西本部で、四段昇段をかけて対戦した。当時は東西リーグの優勝者同士の対局で、勝者が四段に昇段して棋士になれた(年間2人)。世にいう「東西決戦」の制度だった。その大一番の序盤で真部は不利となり、中盤で戦意を喪失して早々と投了してしまったのだ。
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この局面、真部が確かに苦しそうだが、飛車角に金銀4枚は健在で、玉は当分のところ詰まない。ひどい負かされ方をしても、頑張る余地はあった。
真部は東西決戦の苦い敗戦で情緒不安定となった。東京に帰ると母親の財布から数万円を持ち出し、東北に放浪の旅に出た。そして偶然にも着いた場所が、将棋の駒の産地で知られる山形県天童市だった。ぶらりと入った酒場で、将棋指しを断念してバーテンになろうかとも思ったという。
真部を救った有吉道夫、そして山口瞳
東西決戦の後日、「将棋世界」誌に有吉道夫八段の観戦記が載った。真部を激励する意味で、中国の武人が唱えたという言葉を最後に引用した。
《我、戦いに臨んで、刀折れ矢尽きれば、素手をもって闘い、力尽きて捕われの身になれば、眼光をもって射すくめ、盲目にされれば舌をもって敵を刺す……》
真部はそれらの言葉にとても感動したという。
そしてその後、自身の生活を改めた。麒麟児が長い年月を経て飛翔するにあたり、精神面で真部を支援したのは、作家の山口瞳だった。〈つづきは下の【関連記事】へ〉

