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「《ウヒョー》という奇声も…」加藤一二三の悲願 42歳で名人奪取、中原誠との壮絶な名勝負〈若き“ひふみん”の秘蔵写真も〉
posted2021/08/01 06:01
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
Kyodo News
1958(昭和33)年4月。18歳の加藤一二三は順位戦でA級八段に昇進し、「神武以来の天才」と称された。この最年少記録は現在も破られていない。
同年4月。宮城県から上京して高柳敏夫八段の内弟子になっていた10歳の中原誠が、棋士養成機関の「奨励会」に6級で入った。
その時点では、若き天才棋士の加藤、棋士の卵の中原、という大きな隔たりがあった。
1960年の名人戦で、加藤八段は大山康晴名人に初挑戦し、1勝4敗で敗退した。加藤は、ほかのタイトル戦でも大山に挑戦したが、大山の牙城をなかなか崩せなかった。
その加藤よりも先に天下を取ったのは、7歳年下の中原だった。
1972年の名人戦で、通算18期・連続13期も名人位を保持していた大山名人を、24歳の中原八段が破って新名人になった。
加藤は中原に何と20連敗をしていた
1973年の名人戦は「将棋界の若き太陽」と称された中原名人に、「神武以来の天才」の加藤八段が挑戦し、大いに注目された。
両者の対戦成績は、名人戦の開幕まで、中原が13勝1敗と大きくリードしていた。
そんな状況でも、大山九段は「こういう極端な数字は、何かの拍子でがらりと変わります」と語り、中原のライバルの米長邦雄八段は「加藤さんの票田がそろそろ開く頃です」と選挙にたとえて語った。両者は加藤の勝利を予想した。
しかし同年の名人戦は、中原が加藤に4連勝し、名人位を初防衛した。
加藤は名人戦で中原に敗れた後、以前に洗礼を受けてクリスチャンになった教会のミサで、神秘的な経験をした。そして、「いつの日か名人になれる」と確信したという。
加藤は中原との公式戦の対局で、1969年から1976年までの8年間で、何と20連敗もしていた。
しかし、中原の将棋を詳しく研究していくうちに、自信を持って戦えるようになったという。攻めが強い中原に対して、「それ以上に鋭く攻める」ことを心がけた。やがて苦手意識を払拭し、棋王戦、王将戦などのタイトル戦で中原を打倒した。