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「長髪スーツで歌舞伎町へ」女性にモテモテ…将棋界“消えた名人候補”がいた「まあ、自惚れていましたね」プロ目前の敗北で情緒不安定→放浪
posted2025/12/07 11:00
数々の伝説の棋士を生んだ昭和の将棋界。55歳で生涯を閉じた“名人候補だったプリンス”とは
text by

田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
Nanae Suzuki
昭和から平成という時代性の中で、将棋の名人候補と嘱望されながらも若くしてこの世を去った「棋界のプリンス」がいた。田丸昇九段が紹介する、真部一男という人物とは。〈NumberWebノンフィクション。文中敬称略・棋士の肩書は当時。初出以外は敬称略/全3回〉
少年時代から豊かな素質を有して名人候補と嘱望されていた、真部一男九段という棋士がいた。ただ多才で女性にモテる容貌ゆえに、道草を食った時期もあった。若手の頃は時の名人を連破して活躍し、テレビ番組や時代劇に出演して棋界内外で人気を呼んだ。
棋士としてタイトル獲得は成らなかったが、明晰な棋界時評の文章、博覧強記の知識、趣味の囲碁への傾倒など、多彩で幅広い人生を送っていた。
しかし、40歳頃から長年にわたって体調不良に悩まされると、2007年に55歳で早世してしまった。
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そんな真部の棋士人生を振り返ってみる。
まずは棋士を目指した少年時代、奨励会で同期だった田丸の思い出、四段昇段をかけた「東西決戦」で苦い敗戦などについて描いた「麒麟児編」である。
12歳の誕生日「将棋道場に行きたい」
真部一男は1952(昭和27)年2月16日に東京都荒川区で生まれた。将棋は5歳で覚えた。喧嘩ばかりして手の付けられない腕白ぶりを心配した母親が、おとなしくさせるために将棋を教えた。真部は初心者の母親に負けると、盤をひっくり返して泣きわめくなど、極端な負けず嫌いだった。
真部は数年ほど将棋から離れたが、10歳のときに駒を再び握った。小学校に好敵手がいて将棋の楽しさを知ると、棋力も上達していった。12歳の誕生日に母親から「何がほしい」と聞かれると、こう即答した。

