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「長髪スーツで歌舞伎町へ」女性にモテモテ…将棋界“消えた名人候補”がいた「まあ、自惚れていましたね」プロ目前の敗北で情緒不安定→放浪 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph byNanae Suzuki

posted2025/12/07 11:00

「長髪スーツで歌舞伎町へ」女性にモテモテ…将棋界“消えた名人候補”がいた「まあ、自惚れていましたね」プロ目前の敗北で情緒不安定→放浪<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

数々の伝説の棋士を生んだ昭和の将棋界。55歳で生涯を閉じた“名人候補だったプリンス”とは

「将棋道場に行きたい」

 真部は1964年2月に母親に連れられて東京・池袋の近代将棋道場で指すと、7級と認定されて感激した。以後も通って昇級を重ねたが、千駄ヶ谷の旧将棋会館道場でも指した。やがて母親の知人の紹介で渋谷の加藤治郎八段の自宅教室を訪れ、二枚落ちの指導対局を受けた。加藤は真部の終盤の強さに感心した。

 真部は64年9月、将棋会館道場でアマ三段に昇段。その頃には棋士を目指したい気持ちが高まり、反対する母親を説得して許可を得た。12月に加藤八段門下で奨励会入会試験を6級で受けて合格した。

麒麟児と落ちこぼれ

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 実は、私こと田丸も64年の秋に将棋会館道場に通っていて棋力は二段。真部とは何局か指して少し勝ち越した。そして師匠の佐瀬勇次七段に勧められ、奨励会入会試験を受けることになった。

 65年1月に14歳の私は、奨励会の試験対局で真部6級と対戦。アマ時代には勝ったが、奨励会員の真部には完敗するなど入会試験で2連敗した。しかし師匠の佐瀬七段、奨励会幹事の芹沢博文八段の密約によって、6級で「裏口入会」することができた。昔の将棋界は鷹揚だった。

 私は奨励会に入れたが、以後は負け続けた。真部は勝ち続け、65年12月に2級に昇級した。才気あふれる指し方で「麒麟児」と呼ばれた真部に対して、私は冴えない手を指す「落ちこぼれ」だった。

長髪の派手なスーツで歌舞伎町へ

 私は真部に当初は負けてばかりいたが、次第に勝てるようになった。後の昇段争いでは私の方が先を越した。

 真部は10代半ばの頃、ボウリング、ビリヤード、漫画に熱中し、将棋はお留守の状態だった。いつしか私とは「ウサギとカメ」の関係になっていた。真部は初段で2年も停滞し、1969年11月に17歳で三段に昇段した。当時の心境を次のように語った。

「勝てなかった時期は悔しかったけど、正直に言って欲はまったくなく、いずれ昇段できると思っていた。まあ、自惚れていましたね」

【次ページ】 勝てば四段昇段の決戦で早々に戦意喪失し…

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