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「僕は9人兄弟なんだ」25歳でFW転向してシーズン54発…“コワモテ点取り屋”ブラジル人は「日本のこと何も知らなかった」ではなぜJリーグに?
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沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byTamon Matsuzono
posted2025/11/16 11:01
名古屋グランパス時代のウェズレイ
「フラメンゴで一緒にプレーしたロマーリオ、当時アトレチコ・ミネイロで活躍していたマルケス(その後名古屋グランパス、横浜F・マリノスに在籍)、当時クルゼイロで活躍していたマルセロ・ラモス(その後名古屋、サンフレッチェ広島に在籍)らだね。ビデオで彼らのプレーを観察して得点パターンを覚え、練習で試した」
――そして1999年、州選手権で再び得点王とMVPとなり、ブラジル2部でも29試合25得点、ぶっちぎりの得点王にして大会MVP。2位に11点の大差をつける無双ぶり。出場した全大会の得点が54に達し「ブラジルで最も点を取った選手」となります。
「あの時は、チームも強くて、良いパスが多くもらえた。また、シュートを打ったら全部入る感じだった。ゴール数も僕にとって、大きな誇りだ。当時の国内で最も優れたストライカーの一人、ということだからね」
名古屋移籍…日本の知識は何もなかった
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――そして、2000年7月、名古屋へ移籍します。
「日本から来た代理人が僕のプレーを見て気に入り、2000年のファーストステージを終えて急遽、FWを探していた名古屋へ橋渡しをしてくれた。最初は1年半の契約だった」
――当時、日本のフットボールと日本についての知識や情報はあったのですか?
「いや、ほとんど何も知らなかった。代理人から説明を聞いたくらい。ただ以前から、外国でプレーしたかった。条件面も大事だけど、異なる国の異なる文化を知りたい、という気持ちが強かった。当時の名古屋の監督はブラジル人のジョアン・カルロスだったし、トヨタがバックアップしている大きなクラブで、ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)を中心に攻撃的なスタイルでプレーしている、というのも気に入った」
こうして、ブラジルの強豪7クラブを渡り歩き、しかし実際にはFWにコンバートされてまだ2年の28歳が、未知の国日本へ渡った。〈つづきは下の【関連記事】へ〉

