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「練習態度まで批判され、こんな監督の元では…」「ホンダは高卒時点でギラギラしてた」“J1通算124発”名ブラジル人FWが今だから明かせる裏話
posted2025/11/16 11:00
大分トリニータ時代のウェズレイ
text by

沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Tamon Matsuzono
ウェズレイは2000年代、名古屋グランパスエイト(当時)で実質5年半、サンフレッチェ広島で2年、大分トリニータで実質1年半、計約9年間プレーした。J1通算217試合に出場して124得点は歴代9位で、外国人ではマルキーニョス(鹿島アントラーズ、横浜F・マリノスなど)に次ぐ。1試合あたりの得点率は0.571で、100得点以上を記録した選手の中で群を抜いて高い。
元々は主としてボランチながら、DF、MFと「GK以外はどこでもやった」(本人)。FWに転向したのは1998年ですでに25歳だったが、実働12年で生涯通算310得点を叩き出した。精悍な風貌と逞しい体つきから、「ピッチブル」(ブルドッグ)と呼ばれた。
現在は、生まれ故郷のブラジル北東部サルバドールで選手の代理人業を営む。
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会社の名前は、ニックネームにちなんで「ビッチブル」(PT Ball)。53歳の元名ストライカーが、いかつい顔に愛嬌たっぷりの笑顔を浮かべて迎えてくれた。
“あの名将”には「練習態度まで批判され」
――Jリーグの3クラブでプレーしました。どのクラブに最も強い愛着を覚えますか?
「それぞれのクラブに、強い思い入れがある。選手としての最盛期は、名古屋時代だろうね。ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)、マルケスと共にプレーして、2003年には22ゴールで得点王を手にしたのが誇り。広島でも、佐藤寿人と素晴らしいコンビを組むことができた。そして、大分では08年にナビスコカップを制覇したのが強く印象に残る」
――名古屋で一緒にプレーしたピクシーは、どんな選手でしたか?
「誰もが知っているように、信じがたいテクニックと創造性を備えた正真正銘のクラッキ。でも、決して尊大ではなく、チームの誰とでも謙虚に接していた。人間的にも素晴らしい男だった」
――ただ2004年は10得点にとどまり、当時のネルシーニョ監督との確執が伝えられ、2005年、1試合に出場しただけで退団した。

