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大谷翔平が発言「彼にはかなわない、負けたと思いました」青森にいた“怪物中学生”…なぜプロ野球を諦めたのか? 本人語る「大谷と初めて話した日」 

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中村計

中村計Kei Nakamura

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posted2025/10/15 11:19

大谷翔平が発言「彼にはかなわない、負けたと思いました」青森にいた“怪物中学生”…なぜプロ野球を諦めたのか? 本人語る「大谷と初めて話した日」<Number Web> photograph by Getty Images

大谷翔平に「かなわない」と言わしめた大坂智哉の今

 少年と言っていい年代の大坂は、まだ本州最北端の小さな世界で生きていた。

 身長168センチで、ガッチリとした体型だった大坂は青森県八戸市にあるリトルリーグのチーム、長者レッドソックスの「四番・エース」だった。

 八戸市は日本有数の漁港を有する青森第二の都市だ。東京からだと600キロ以上離れていて、東北新幹線で3時間弱かかる。

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 大坂が生まれ育った八戸市小中野は海から1キロほど内陸に入ったところにある。市の中心である八戸駅から3駅しか離れていないため住宅が密集していて、ローカルタウンながら鄙びた感じはしなかった。ただ、八戸線が走る小中野駅の時刻表を確認すると、朝・夕の通勤時間帯以外は1時間に1本しか電車は来ないらしかった。

 当時、長者レッドソックスが加入していた八戸・青森リーグには全部で6チームが所属していた。長者レッドソックスは、その中で抜きん出た存在だった。理由は簡単である。大坂がいたからだ。

 長者レッドソックスと唯一、勝負できる存在ながら、あと一歩のところでいつも涙を呑んでいたのが青森山田リトルシニアである。同チームは甲子園の常連校である青森山田高校の附属中学の硬式野球部も兼ねている。

 当時の青森山田リトルシニアのエース本間康暉は大坂よりさらに大きかった。中1の時点で、身長173、4センチ、体重は70キロちょっとあったという。球速だけなら大坂と遜色なかったが変化球が苦手でストレート一本槍だったため、大坂にいいようにやられてしまった。本間が証言する。

「バケモンでしたね、大坂は。東北大会につながる試合は四回ぐらいやって、全部負けました。大坂に抑えられて、大坂に打たれて負けるんです。大坂の真っ直ぐは張っていても打てない。そこに変化球を混ぜられたら、100パーセント空振りです。スコアは、ほぼ1ー0だったと思います。だいたい大坂のホームラン1本で負けるんで。2ストライクに追い込んで、外に外そうと思ったら逆方向にバコーンって打たれたこともありました」

最初の大谷伝説「17奪三振(18アウト中)」

 準決勝の第1試合は水沢パイレーツと福島リトルがぶつかった。そこで、とんでもない記録が生まれることになる。

<続く>

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#2に続く
大谷翔平「大坂君には負けたと思いました」大谷のライバルだった“青森の天才”とは何者か? “怪物中学生”のその後…運命を変えた「12歳の選択」

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