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ドゥーハン、ロッシ、そしてマルケス…最強時代を築いた“強くて速すぎる”ライダーと、NSR500~GP25に至る名車の系譜 

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遠藤智

遠藤智Satoshi Endo

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posted2025/08/28 11:00

ドゥーハン、ロッシ、そしてマルケス…最強時代を築いた“強くて速すぎる”ライダーと、NSR500~GP25に至る名車の系譜<Number Web> photograph by Getty Images

ゼッケン「1」を初めてつけた95年のドゥーハン。これ以降、レプソルカラーは常勝の象徴となった

 ドゥーハンは80年代後半、スーパーバイク世界選手権にヤマハで世界デビューを果たした。当初からグランプリ500ccクラスへの参戦を希望したが、このころのヤマハはウエイン・レイニー、エディ・ローソンなどの強豪でシートが埋まっており、ヤマハからの参戦は実現しなかった。

 そのころ、ドゥーハンと親交のあった僕の知り合いが、こんな話をしてくれた。

 ある日、静岡県磐田のヤマハ本社を訪れたドゥーハンがグランプリ参戦の夢破れ、失意の中、電話をかけてきた。「ホンダに行きたいのだが、どう行けばいい?」。そこで「新幹線に乗って東京へ。タクシーに乗って青山のホンダ本社へ行け」と伝えた。あたって砕けろとばかりにホンダ本社を訪れたドゥーハンに幸運が転がり込む。なんと89年シーズン、めでたくワイン・ガードナーのチームメートに抜擢されることになった──。

「じゃじゃ馬」を乗りこなした男たち

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 当時、グランプリ最高峰の500ccクラスは、全メーカーが2ストロークエンジン搭載のマシンを投入していた。軽量ハイパワーなマシンは「じゃじゃ馬」と言われ、乗りこなすのに3年はかかると言われた。実際、元気あふれるドゥーハンは転倒の多いライダーだった。

 だが90年代に入ると、ホンダが点火タイミングをずらした通称「ビッグバン」エンジンを投入。このマシンのアドバンテージを活かし、ドゥーハンは92年に右脚を骨折する大けがを負いながらも左手で操作するハンドブレーキを駆使し、94年から破竹の快進撃を続けることになった。

 この頃、最大のライバルだったヤマハのレイニーが怪我で引退、スズキのケビン・シュワンツも怪我の影響で引退したこともあり、94年以降は事実上ライバル不在の圧倒的な強さを誇った。

 当時は決勝レースが終わった翌日にテストが行われることが多く、ドゥーハンは月曜日のテストでニューパーツを試して何度もスーパーラップを刻んだ。ホンダの開発陣は手応えを感じるも、ドゥーハンに「今日は(レースウイークを入れて)4日目。ベストラップが出てあたりまえ」とパーツの導入を却下されることが多く、開発陣からは「ドゥーハンはなかなか新しいのを使ってくれない」という不満の声も聞こえた。結果的にドゥーハン最強時代は、99年のスペインGPで大怪我をするまで続くことになった。

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