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「社会なめてました」23歳で戦力外通告…元オリックス吉田雄人が語る、野球界を離れて痛感した金銭感覚のズレ「報ステの映像制作→今は部員4人の野球部監督」
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米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph bySankei Shimbun
posted2025/08/27 11:21
2017年4月1日楽天戦、9回裏に代走として一軍初出場するオリックス吉田雄人(当時21歳)
中嶋前監督のもとで開花した杉本裕太郎や宗佑磨といった選手たちは、吉田と共に二軍でもがき、喘いでいた選手だった。
のちの話になるが、吉田が北海道に戻ったあと、遠征で来た宗と食事をした際、こう言われたという。
「雄人さんもあと1年いたら全然違いましたよ。人生変わってたかもしれませんよ」
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吉田が戦力外通告を受けた2018年のオフに、中嶋がオリックスの二軍監督に就任した。二軍監督時代から、山崎福也をつきっきりで指導したり、宗にサード転向を勧めるなど、選手の人生を変える種を蒔き始めていた。
「『俺ももう1年いたら、お前らみたいになってたかも』なんて、自分からは到底言えない。口が裂けても言えない。それを宗がすごくナチュラルに言ってくれたのは、なんか……嬉しさもありましたし、複雑でしたね。『お前にそう言ってもらえるのは嬉しいわ』って、たぶんそう返した気がします」
転機となった母校からの誘い
映像制作会社のディレクターとして、オリックスの優勝や元同僚の活躍を間近で見るうち、疑問が頭をもたげた。
「『自分はこのままでいいのかな?』と思うようになりました。ディレクター業務は正直なところ給料がよくて、生活には困らなかったんですけど、やりがいというか、そういうものを探していました」
22年はディレクターをしながら、ジムでアルバイトをし、トレーナー資格を取得した。
「妻の友達や、いろいろな人と話す中で、体やトレーニングのことを聞かれることがよくあったんです。その時、自分が持っている知識だけでも伝えると、すごく喜んでもらえた。自分の得意分野でこんなに喜んでもらえるならありがたいことだなと思って、資格を取りました」
22年のオリックスのリーグ連覇と日本一を見届けると、吉田は映像会社を辞めて北海道に戻り、23年の年明けに札幌でジムを開業した。
その頃、母校・北照高の上林弘樹監督に、コーチをやってほしいと誘われ、週に一度、通うようになった。その時、運命は決まった。〈第3回に続く〉

