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「引退まで横浜一筋のつもりだった」落合博満の指導で開花した“ハマの大砲”多村仁志の衝撃トレード「『何故だ!?』という思いが渦巻いて…」
text by

石塚隆Takashi Ishizuka
photograph byJIJI PRESS
posted2025/07/18 11:40
2004年、「3割40本100打点」というスラッガー理想の成績を残した多村。まさかその2年後にトレードを告げられるとは
当時の状況を、多村は遠くに視線をやり振り返った。
落合博満は何時間も黙って見守り……
「ローズを真似た打ち方を見て、落合さんが『それじゃ何時間も打てないだろう』と、おっしゃったんです。実際、今までにないぐらい何時間も休みなく、ケージで打撃マシン相手にバットを振ってみると、疲労で下半身は張ってくるし、力も入らなくなっていきました。
するとだんだんと上体が立ってきて、必然的に体に負担の掛からないフォームになっていったんです。もう疲れ切って完全に力が抜けたとき、何時間も黙って見守っていた落合さんが『それだ! それがお前の自然体だよ』と言ってくれました。『その状態から動き出せばタイミングもとりやすいし、打ちやすいバッティングができるはずだよ』と」
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こうして直立し、右手で傘をスッと持つような多村独自のフォームが誕生した。
「構えだけでなく投球へのアプローチなども指導していただきましたが、それまではパワーでボールを飛ばそうと考えていたのが、このフォームによって脱力していてもボールの飛び方が変わったんです。タイミングを合わせて、上手くボールにバットの軌道が入れば面白いようにホームランになっていましたね」
落合の指導法は独特であり人を選ぶというが、多村にはそれが見事にハマり、こうして“ハマの長距離砲”は誕生した。
WBC王ジャパンで大活躍
前述したようにプロ10年目の2004年にキャリアハイをマークすると、時にコンディション不良もあったが、多村はベイスターズの顔として益々存在感を高めていった。その年のオフに開催された日米野球ではNPB代表に選出され、MLBで首位打者1回、本塁打王1回、シルバースラッガー賞を9回受賞したマニー・ラミレスを相手にホームラン競争を戦い勝利を挙げている。
「まさか勝てるとは思いませんでしたよ。時間があればMLBをずっと見ていましたし、以前から、いいなあ日米野球、と思っていたので出場することができて、あの時間は本当に最高でしたね」
20年以上前のことだが、多村は野球少年のように顔を輝かせ、そう語った。
そして2006年3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、王貞治監督率いる侍ジャパンのメンバーに選ばれると、全試合に出場しチーム本塁打王(3本)と打点王(9点)になり、さらに好守でチームを救うなど、初代世界一に大貢献した。


