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「2年後にダイエーに戻って来い」「メジャーから接触」も佐々木誠が西武にFA宣言残留した理由とは?「あとから考えたら決断を誤ったかなあ」
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2025/07/05 11:06
監督が代わって違和感があるなかでFA権を取得した佐々木誠だったが、複数の選択肢から宣言残留を決断した理由とは……?
優勝のために、自ら約束を反故にした
「面倒見るから、って言われて、ダイエーの方は守ろうとしてくれたんです。でも、僕が反故にしたんです。自分の中で何事もやり切って出ていきたかった。勝てなかった、負けて出ていくというのが、すごく自分の中で嫌だったんです」
残留した西武で、1997、98年はリーグ連覇を果たした。しかし、佐々木の出場試合数を見ると、97年は121、98年は75と漸減。盗塁数も94年の37をピークに、18、7、5、6。
「だから、なんか、野球じゃないなと。やっぱり、FAを取ったときに、決断を誤ったのかな、というのは自分の反省点。まあ、これも“あとから”ですけどね」
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99年に金銭トレードで阪神へ。監督・野村克也の評判は、南海時代に先輩たちから聞かされていたといい「選手の好き嫌いが激しいですよね」。00年で退団すると、01年には渡米。クリーブランド・インディアンス(現クリーブランド・ガーディアンズ)傘下のマイナーキャンプで、メジャー40人枠入りを争った。
あえてマイナーで勉強を
「最後は、勉強をしに行ったんです。日本の野球とアメリカの野球の違い、コーチングの仕方とかを勉強しに行こうと」
だから、メジャーに挑むというより「マイナーを経験している選手を見たかった」。そこで佐々木は、通訳を通して球団側に「マイナー契約をしてほしい」という、異例のお願いもしていたほどだった。日本で首位打者にも輝いたベテランの実力はさび付いておらず「35歳のおっさんを取るか、18歳のプエルトリコ人の若手を取るか、っていう1枠の競争をしていたんです」。
就労ビザの問題も絡む外国人枠の関係で、最終的に18歳の若手が選ばれたという。そこから佐々木は、インディアンスに独立リーグの球団を紹介してもらい、プレーしながら、アメリカの“育成事情”を研究した。

