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「2年後にダイエーに戻って来い」「メジャーから接触」も佐々木誠が西武にFA宣言残留した理由とは?「あとから考えたら決断を誤ったかなあ」
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2025/07/05 11:06
監督が代わって違和感があるなかでFA権を取得した佐々木誠だったが、複数の選択肢から宣言残留を決断した理由とは……?
アマチュア指導、そして育成へ
帰国後、2003年に古巣・ダイエーで2軍外野守備走塁コーチ、04年は西武時代のコーチ・伊原春樹が監督に就任したオリックスで1軍外野守備兼打撃コーチ、05年はオリックスの2軍、サーパス神戸の外野守備走塁コーチを歴任後、アマ球界の指導者へと転身する。
08年はセガサミーの監督としてチームを都市対抗に導き、12年からは社会人の強豪・NTT西日本で3年間、監督を務め、西武の守護神となる増田達至を育て上げた。15年からソフトバンク3軍打撃コーチ、17年には3軍監督も務めた。さらに18年からは鹿児島城西高の監督に就任、コロナ禍で開催中止という悲運に見舞われたが、20年に同校を初のセンバツ出場に導いている。
23年限りで同高監督を退任すると、佐々木は神戸に居を移し、24年7月から神戸市兵庫区に「佐々木誠の野球教室」を開校。小・中学生を対象としたマンツーマン指導は、開校からおよそ1年で30選手が通っているという人気ぶりでもある。
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「高校野球では、野球人として人間性を作ることをやりたかった。だから、甲子園はどうでもよかった。たまたま勝って、甲子園に行く。しかし、甲子園に行くことを学校側が求めるから、うまくマッチングしない。野球の裾野を広げて、野球人としての最低限のこと、挨拶であったり、何がいいのか、悪いのかであったりを教えてあげる。
この野球教室でも、野球のいろはを教えているだけで、技術は教えていない。持っている子は、そこから勝手に伸びていく。ここに来ている子なんか、自分の能力を分かっていないから、それを引き出してあげたい。自分がどれだけの力を持って、どれだけできるかということが分かっていれば、じゃあ、何をすべきかというのは、結論的に出るわけですよ」
野球人生での後悔
自らのキャリアの中で、その“佐々木誠のスタイル”を見失ったという、負の経験がある。
「首位打者を取った時、ホームランが21本だったんです。その次の年、30本を打ちたかったんです。トリプルスリーをやりたくて、あとホームランだけだったんです」

