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「2年後にダイエーに戻って来い」「メジャーから接触」も佐々木誠が西武にFA宣言残留した理由とは?「あとから考えたら決断を誤ったかなあ」
posted2025/07/05 11:06

監督が代わって違和感があるなかでFA権を取得した佐々木誠だったが、複数の選択肢から宣言残留を決断した理由とは……?
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
Kazuaki Nishiyama
佐々木誠の西武2年目の1995年から、監督が東尾修に代わった。西武の前身・西鉄時代を含め、エースとして投げ続けた20年間で通算251勝。監督という存在には、チームの顔としての役割があり、その点でチーム生え抜きの東尾のネームバリューは絶大だった。ただ、失礼ながら、東尾の采配には、森と同じような繊細さは見えづらかった。それでも、勝負師としての嗅覚や勘を発揮した“ひらめき”は、東尾の個性でもある。
東尾の「博打野球」
しかし佐々木は、そうした目には見えづらい部分での違和感が、なかなか拭えなかった。
「東尾さんって、どちらかと言えば博打みたいな野球だったんです。なんでこのカウントでエンドラン? イチかバチか、訳の分からんスクイズのサインとかが出たりする。僕も一回、スクイズのサインが出て、わざとファウルにしたんです。それで『打て』となって、ホームランを打ちましたけどね。
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なんかこう、野球をちゃんとやりたくて西武に来たのに、何か違うなと。意図のない野球になってしまったんです。僕の求めている野球ではなかったんで、自分の中でちょっと歯車がかみ合わなかった。だから、勝ったり負けたりするんです」
オリックスに大差をつけられる
東尾の監督1年目となる95年は、優勝したオリックスに12.5ゲームの大差をつけられての3位。佐々木は、130試合全試合出場を果たしながらも、打率.271、17本塁打、55打点、18盗塁と、いずれも移籍1年目から個人成績を落としている。
目立つのが、盗塁王だった前年からほぼ半減した盗塁数だった。今だから言えるのかもしれないが、佐々木は半ば呆れたように、その裏話を明かしてくれた。