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「一茂、なんとか打ってくれ!」“長嶋茂雄・一茂親子と対戦”あの中日投手の告白「抑えちゃった…でも練習の飛距離はスゴかった」いま明かす“長嶋愛”
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph bySankei Shimbun
posted2025/06/06 17:00
1991年2月、ヤクルトのキャンプで息子・長嶋一茂のバッティングをチェックする長嶋茂雄。隣には野村克也
「下の名前で呼んでくれることが何よりも嬉しかった」
1974年当時、V10を目指していた巨人の川上哲治監督は、衰えの目立つ長嶋を1番打者として30試合に起用している。だが鈴木としては、「1番サード長嶋」のアナウンスを奇妙に感じたという。
「俺たちの時代は、4番サードが一番野球のうまいやつの証だからね。1番サード長嶋って言われてもピンとくるはずがない」
同年かぎりで長嶋が現役を退いても、鈴木の尊敬の念は尽きることがなかった。
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「長嶋さんが引退してすぐの第一次監督時代(75年~80年)、巨人と対戦するとなったらそりゃ嬉しくて嬉しくて、まずグラウンドで長嶋さんを探して必ず俺から挨拶に行っていたから。少しでも側にいたくて仕方がなかった」
その後、長嶋は80年のオフに監督を解任され、92年秋の再就任まで長い“浪人生活”に入る。
「80年代、宮崎の串間で春季キャンプやっているときに、長嶋さんが陣中見舞いで2本のウィスキーをホテルに届けてくれたの。『長嶋って書いてあるけど、どこの長嶋だ?』って最初は思って、後になってフロントから長嶋さんからの贈り物だって聞いたんだ。そしたら次の年は“長嶋茂雄”ってフルネームで書かれてあった(笑)。それをずっと封を切らずにしまっておいたんだよ。引退してから東海テレビで俺の対談企画が始まって、第1回のゲストに長嶋さんをリクエストしたら来てくれたの。ホテルオークラでやった収録に陣中見舞いにもらったウィスキーを持っていったら『まだ開けてなかったのか?』と長嶋さんが言って、二人で封を切ったんだ。そのとき初めてオールドパーをもらったんだとわかった。第二次政権(93年~01年)で監督をやられているときに解説者として挨拶に行くと、『孝政くん、今日は(解説)登板?』ってあの朗らかな顔で毎回聞いてくるんだよね。もうね、いろいろ言葉をかけてくれたけど、下の名前で呼んでくれることが何よりも嬉しかった」


