Sports Graphic Number SpecialBACK NUMBER

[知られざる原点]野村克也の南海時代 マスク下の血気と知略の蕾

posted2025/06/06 09:00

 
[知られざる原点]野村克也の南海時代 マスク下の血気と知略の蕾<Number Web> photograph by SANKEI SHIMBUN

text by

酒井俊作

酒井俊作Shunsaku Sakai

PROFILE

photograph by

SANKEI SHIMBUN

通算24年の監督人生でキャリア初年は2位。8年間で513勝472敗55分け。「知将」の源流は約半世紀前、南海のプレーイングマネジャー時代にあった。「考える野球」を進めつつ、時に叱咤し、時に涙した青年指揮官の実像に迫った。

「知将」と呼ばれた野村克也がプロ野球人生で初めて監督に就いたのは1970年のことである。その2年前まで8年連続でパ・リーグの本塁打王に君臨。不動の正捕手として南海ホークスの攻守の要だったが、34歳の若さでプレーイングマネジャーを引き受けたことで一人三役を担った。前年に球団初のリーグ最下位に沈んだチームの再建を託されると新たなスローガンを掲げる。

 シンキング・ベースボール――。

 南海でバッテリーを組み、教え子でもあった江本孟紀が野村の意図を明かす。

「10の力があるヤツに7の力しかないヤツが戦っても力だけでは負ける。でも残りの3を見つけてくれば五分で戦える。『考える野球』によって、3を埋められる」

 実は野村は最初に監督就任を打診されたとき、重荷だとして断った。球団に説得されると条件をつけた。3年間、同僚だったドン・ブレイザーのヘッドコーチ起用だ。江本は「野村さんは川上さんを目指そうとしたのではないでしょうか」と推察する。

 南海で23年間、監督を務めた鶴岡一人は精神的なものを重んじていた。野村はそれよりも'65年からV9の真っただ中だった巨人の川上哲治監督に惹かれたという。川上の傍らには組織野球の端緒である「ドジャースの戦法」を唱える牧野茂コーチがいた。野村は参謀が肝だと考えたに違いない。

こちらは雑誌『Number』の掲載記事です。
NumberWeb有料会員になると続きをお読みいただけます。

残り: 4029文字

NumberWeb有料会員(月額330円[税込])は、この記事だけでなく
NumberWeb内のすべての有料記事をお読みいただけます。

関連記事

#野村克也
#南海ホークス
#江本孟紀
#鶴岡一人
#川上哲治
#ドン・ブレイザー
#阪神タイガース
#柏原純一
#和田徹

プロ野球の前後の記事

ページトップ