プロ野球PRESSBACK NUMBER
「お前ら明日からドジャース行け!」星野仙一の理不尽命令で渡米…落合博満と同部屋は「雲の上すぎて寝る時だけ」中日ルーキー山崎武司ウラ話
text by

間淳Jun Aida
photograph byKyodo News
posted2025/06/08 11:01
1987年、ルーキーイヤーの中日・山崎武司。星野仙一監督の“命令”でまさかのドジャース傘下行きとなった
「当時は自分に支払われるルーキーリーグの給料をドラゴンズが全て負担していました。ドラゴンズはルーキーリーグの枠を自分のために買っていたわけです。絶対に試合に出られる立場にいたのに、あまりにも自分の能力が低くて使ってもらえませんでした」
このままでは修行にならないと判断された山崎に、次の指令が届く。
「ドミニカに行け」
ADVERTISEMENT
出場機会を確保するため、中日はドミニカ共和国のリーグで山崎がプレーする手続きを進めた。ここでは試合に出場し、2カ月近く過ごした。
米国では同世代の選手のレベルとハングリー精神の高さを痛感した。18歳だった山崎は生活に苦労しない金額の年俸を受け取り、米国での食費や滞在先も球団が用意してくれた。一方、ルーキーリーグの半数以上を占めたドミニカのチームメートは十分な収入がない中でも、生活を切り詰めて家族に仕送りをしていた。
「米国に残らない?」「結構です。日本に帰ります」
山崎は当時をこう振り返る。
「ドミニカの選手たちは仕送りのお金を捻出するために、朝食を抜いて食事代を節約していました。さすがに朝ご飯を食べないと体に良くないと思って、みんなに『朝7時にマクドナルドに集合』と伝えました。1カ月間、毎日おごり続けました」
週末になると、山崎の滞在先にドミニカの選手たちを招いた。バーベキューができるスペースがあったため、食材を買い込んでもてなした。まだ18歳と若くても異国の地の生活でも兄貴肌は変わらず、ボスのような存在だったという。
山崎がプロ1年目に経験した渡米は日本のレギュラーシーズン期間中だったが、当時はシーズンオフに二軍の選手が米国のリーグ戦に参加するのが通例だった。山崎は2年目以降も、シーズンが終わると渡米した。プロ1年目と違い、出場機会は年々増加。3打席連続で本塁打を打った試合もあったという。
「日本の教育リーグみたいな形で、時には故障明けのメジャーリーガーも調整で来ていました。プロ入りして3、4年経った時は米国でも、ある程度打てるようになりました。レフト、ライト、センターに3連発を放った次の打席にデッドボールを当てられて乱闘もしました。身長2メートルを超える大男に向かっていきましたね」
米国の球団からは「こっちに残ってプレーしないか?」と声をかけられた。しかし、山崎はメジャーリーグにも米国での生活にも関心がなかった。だから、こう即答した。
「結構です。日本に帰ります」
主張していたのは立浪だけでしたね(笑)
プロ1年目は「突然の米国行き」以外にも、理不尽や洗礼の連続だった。
