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「お前ら明日からドジャース行け!」星野仙一の理不尽命令で渡米…落合博満と同部屋は「雲の上すぎて寝る時だけ」中日ルーキー山崎武司ウラ話
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間淳Jun Aida
photograph byKyodo News
posted2025/06/08 11:01
1987年、ルーキーイヤーの中日・山崎武司。星野仙一監督の“命令”でまさかのドジャース傘下行きとなった
ドミニカ共和国から帰国すると、渡米前に三塁手転向を命じた星野からは「捕手に戻れ」と一言。もちろん、山崎は拒むことも、説明を求めることもせず、決定事項を受け入れた。
「星野さんの言うことに反論したり、自分の考えを主張したりする選手はいなかったですね。それは自分だけではなく、山本昌さんも、中村武志さんも同じ。主張していたのは立浪(和義)くらいだったと思います(笑)」
落合と同部屋…話しかけることすら
米国への野球留学を言い渡される前にも、山崎は星野監督の決定に驚く場面があった。それは、春季キャンプ中の部屋割り。高卒ルーキーの山崎は2人部屋の相手を聞いて何かの間違いだと思ったという。年齢が近い先輩と同じ部屋になるのが一般的だが、相手は移籍1年目となる落合博満だったのだ。前年にロッテで2年連続三冠王を獲得した落合は、山崎にとって「雲の上の存在」だった。
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「1年目の小僧でしたから、三冠王と同じ部屋になるとは全く想像していませんでした。星野さんの期待の表れで、『落合さんのような打者になれ』というメッセージだったと思います。勉強しろと。ただ、あまりにも偉大で、話しかけることさえできませんでした」
当時、落合には球団の専属広報が付いていて、毎晩2人で晩酌していたという。同じ部屋で過ごす山崎の居心地の悪さは想像できるだろう。山崎は落合が就寝する時間まで他の選手の部屋で過ごし、寝る時にだけ自分の部屋へ戻った。
山崎が感じた落合の「異次元の打撃」とは
山崎は落合と中日で7年間チームメートだった。まだ一軍に定着できなかったこともあり、直接会話した記憶はほとんどない。だが、山崎はプロで年数を重ねる中で、落合の「異次元の打撃」を実感していた。
「自分は二軍で最多本塁打のタイトルを獲っていましたが、一軍の投手には全然対応できませんでした。一軍のレベルを知ったことで、身をもって落合さんのすごさを知りました。無死三塁や1死三塁の場面で、落合さんが走者を還せなかった印象がありません。どんな形でも得点につなげるイメージでした」
山崎はプロ3年目の1989年、ウエスタン・リーグで本塁打と打点の二冠王に輝いた。打率も.336と好成績を残した。翌年も本塁打と打点でタイトルを手にしている。一軍定着は近いと思われたが、一軍と二軍の間に高い壁を感じていた。
「一軍の投手の真っ直ぐはスピードもコントロールも二軍と比較にならない。変化球も切れが全く違いました」
気付けば、レギュラーを獲得できないまま年齢は20代中盤に入っていた。〈つづく〉


