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生放送でバラされた「おまえ、平田だろ!」プロレス史に残る“珍事件”、本人が明かした全真相…なぜ平田淳嗣は、それでもマスクを脱がなかったのか? 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2025/05/17 17:01

生放送でバラされた「おまえ、平田だろ!」プロレス史に残る“珍事件”、本人が明かした全真相…なぜ平田淳嗣は、それでもマスクを脱がなかったのか?<Number Web> photograph by AFLO

平田淳嗣本人が明かした、「おまえ、平田だろ!」事件の真相《全2回の後編》

平田に舞い込んできた“さらなるチャンス”

 それでも開き直ってメキシコで必死に修行したが、同期のジョージ高野、ヒロ斎藤が先にカルガリーに転戦し現地の話を聞くと我慢の限界に達した。

「もうどうしてもカルガリーに行きたくなって、UWAと揉めながら強引にメキシコを離れたんですよ。これはUWAと提携していた新日本の顔を潰す行為だから、もう日本には戻れない覚悟でカルガリーに転戦しましたね」

 そして念願のカルガリー入りをはたすと、親友ブレット・ハートのアドバイスもあり、頭をモヒカン刈りにして北アメリカ先住民族ギミックの「サニー・ツー・リバース」に変身。ベビーフェイスとしてインディアン居住区のヒーローとなり、83年11月にはハート兄弟やダイナマイト・キッドも腰に巻いた現地の伝統的なタイトル、英連邦ミッドヘビー級王者にも輝いた。

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 そして84年、平田にさらなるチャンスが舞い込んでくる。

「ちょうどキラー・カーンさんがアメリカからカルガリーに遠征してきて、『おまえ、テキサスに来るか?』って誘ってくれたんですよ。テキサス州ダラスといえば、エリック兄弟が活躍していたすごく景気のいいマーケットで、しかも念願だったプロレスの本場アメリカですからね。『やった! ついにアメリカに行ける』『弁髪のキラー・カーンとモヒカン刈りの俺でタッグを組んで暴れてやろう』って夢が広がったんです」

 1984年といえば、映画『アイアンクロー』でも描かれていた、エリック一家の四男、ケリー・フォン・エリックがNWA世界ヘビー級王者になったダラス地区の最盛期。そんな時期に平田はダラスで活躍するチャンスをつかみかけていたが、そのタイミングで新日本から帰国命令がくだってしまう。当時、新日本は選手大量離脱に見舞われており、人員補充が必要だったためだ。

「キン肉マンになれ」も計画は頓挫した

「坂口(征二)さんから電話がかかってきて、『アメリカ行きが決まってるので帰れません』って断ったんですけど、『とりあえず日本に一度帰ってから行ってもいいじゃないか』って説得されて。帰ったら『キン肉マンになれ』って言われたんですよ」

 これはもちろん、80年代前半の初代タイガーマスクブームの再現を狙って、当時子どもたちの間で大人気だったプロレス漫画『キン肉マン』の主人公をリングに登場させようと企画されたものだ。しかし、新日本にキン肉マンを登場させる肝心な“下準備”が整っていなかった。

「自分はマスクマンになるつもりはなかったし、世代的に『キン肉マン』を読んだこともなかったから嫌だったんですけど、周りに説得されて『これも経験かな』と思って決断したんです。ところが、いざキン肉マンのデビューの時になって、権利関係がクリアされてなくてボツになっちゃったんですよ」

 こうして“プロレスラー・キン肉マン”誕生の計画は頓挫。新日本は素顔での凱旋帰国に変更しようとしたが、今度は平田自身がそれを拒否した。

「キン肉マンになるために帰国させられて、それが会社の都合で中止になり、今度は素顔になれですからね。それでこっちも意地になって、ちょうどカルガリーで一緒になってたワカマツさんが帰国してたんで、ワカマツさんをマネージャーにしてヒールのマスクマンになってやろうと思ったんです」

【次ページ】 「生放送であんなことを言われた時はビックリしましたよ」

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