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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「猪木の顔を潰す気か?」タイガーマスク、前田日明…新間寿は名レスラーたちをいかに生み出した?“過激な仕掛人”がプロレス界に遺した功績
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/05/20 11:01
新間寿の“仕掛け”によって生み出された初代タイガーマスク
第1回IWGPの開催という一大イベント
そうして新日本に入門させた前田の売り出しに一役買ったのも新間だった。前田は78年8月にデビューし、3年半後の82年2月、イギリスへ海外武者修行に出発。1年2カ月後の83年4月に凱旋帰国するが、その時、新間が用意した前田凱旋の舞台が第1回IWGPだ。
IWGPといえば、現在は新日本が管轄するチャンピオンベルトの名称として知られているが、もともとは「インターナショナル・レスリング・グランプリ」が正式名称であり、“過激な仕掛け人”新間寿の集大成事業ともいえる一大イベントだった。その内容は、世界中に乱立するチャンピオンベルトを統一すべく、世界6地域で予選を行い、代表選手によって決勝リーグ戦を開催し、真の世界一、リアル・ワールドチャンピオンを決めるという壮大なプロジェクト。
プロレスは他のスポーツのように統一機構があるわけでもなく、世界各地の団体がそれぞれ独自のチャンピオンを認定しているジャンル。当初は世界統一王座など、およそ実現の可能性が薄い、荒唐無稽な話だと思われていたが、新間は持ち前の行動力で各国の有力プロモーターの協力を取り付け、これを現実味あるものにしていく。
“前田伝説”のきっかけも新間の仕掛けだった
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そして約3年の準備期間を経て、第1回IWGPは83年5月についに開幕。当時、ヨーロッパヘビー級王者だった前田は、その決勝リーグ戦に「ヨーロッパ代表」としてエントリーした。各地域の代表10名が参加した第1回IWGPに参加できた日本人は、前田以外にアジア代表のアントニオ猪木とキラー・カーン。そして北米代表のディノ・ブラボー欠場を受けての代役出場したラッシャー木村の3人のみ。
当時の新日本は藤波辰巳と長州力の名勝負数え歌と呼ばれたライバル抗争が人気を博していたが、藤波、長州ともにヘビー級としては小柄。そんな中、190センチを超える長身を誇る前田が、藤波や長州、坂口征二も出場できなかったIWGPに抜擢されたことで、24歳にして「前田こそが将来のエース候補」との声が聞かれるほどの期待を集めることとなる。前田伝説のスタートもまた新間の仕掛けによるものだったのである。
この第1回IWGPはプロレスブームの頂点であったが、決勝で猪木がハルク・ホーガンのアックスボンバーにより失神KO負け。病院送りになるという“大事件”が起こり、猪木神話崩壊、そして新日本が凋落し始めるきっかけにもなってしまった。
当時、プロレスブームの裏で、新日本内部は猪木の個人的事業も絡む不透明な金の流れによって不満が充満しており、IWGP決勝2カ月後の8月には人気絶頂だった初代タイガーマスクが突如引退(新日本退団)。さらに同じ月に社内で“クーデター未遂事件”が勃発し、猪木は代表取締役を解任され(その後復帰)、腹心である新間寿も営業本部長を解任され退社の憂き目にあったのだ。

