革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「この話で喜ぶ人はいない」が…野茂英雄メジャー挑戦30周年の今だから“真相”を関係者に訊く!「1994年の近鉄」野茂ラストイヤーに何が起きていたか
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2025/05/02 11:03
結果的に野茂英雄のラストイヤーとなった「1994年の近鉄バファローズ」に何が起きていたのか…メジャー挑戦30周年に番記者が改めて迫る
「パイオニア」だけではわからない部分
ただ、当時の野茂の周辺、そして近鉄というチームの動きを、その間近に、リアルタイムで見てきた番記者の一人として、その場で見て、話を聞き、感じたことは、未知の世界へ挑もうとする「パイオニア」としての「野茂英雄」という好意的な側面だけでは、決して読み解けない部分が多かったのも、また事実である。
だから、今回の連載では、あの当時、野茂に深く関わった人たちを訪ね歩いてみた。
長い年月が過ぎ、各人の経験や独自の解釈が練り込まれたそれぞれの振り返りは、単なる回顧談には終わらず、往時を客観視した“歴史的証言”へと昇華していた。時が経ち、今だから言えるという“時効の話”は、私にとっても、答え合わせとしての楽しさと驚きに満ち溢れていた。
阿波野秀幸という男
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連載のスタートにあたって、阿波野秀幸の述懐をまずご紹介したい。
今なお、名勝負の一つとして、色あせない感動とドラマに満ちた「10・19」。1988年、激闘のペナントレースのクライマックスは、最終戦となるロッテとのダブルヘッダーに挑み、連勝なら近鉄のリーグ優勝が決まるという“大二番”だった。
初戦は逆転勝利、2戦目は無念の延長引き分けで、近鉄は優勝を逃すことになる。その2試合に、いずれも勝負どころのリリーフのマウンドに立った阿波野はその年、2年連続2桁勝利となる14勝を挙げていた。その前年、ルーキーイヤーの87年には249回3分の2を投げての15勝で新人王を獲得、3年目の89年にも235回3分の2を投げ、19勝をマークして最多勝、胴上げ投手にも輝いている。
まさしく、近鉄バファローズの歴史を彩るレジェンドの一人である。
阿波野にとっても、1994年は野球人生の転機だった。そのオフ、野茂がメジャー挑戦を表明し、近鉄を退団することになるのだが、阿波野も香田勲男との交換トレードで巨人へ移籍することが決まった。
今回の取材を申し入れると、承諾の返事とともに「覚悟して来いよ」と告げられた。

