革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「この話で喜ぶ人はいない」が…野茂英雄メジャー挑戦30周年の今だから“真相”を関係者に訊く!「1994年の近鉄」野茂ラストイヤーに何が起きていたか
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2025/05/02 11:03
結果的に野茂英雄のラストイヤーとなった「1994年の近鉄バファローズ」に何が起きていたのか…メジャー挑戦30周年に番記者が改めて迫る
その分厚い、誰も叩いたことがなかった『壁』を、野茂が強行突破するという一大騒動は、1994年のオフから1995年の年明けにかけてのことだった。当時の近鉄監督・鈴木啓示との、互いの“投手としてのポリシー”の違いから生まれた冷戦状態と球団経営陣との度重なる対立は、野茂の「わがまま」として捉えられ、日本球界を捨てる「裏切り者」というヒールの扱いだったのも確かだ。しかし、メジャーで活躍するや否や、手のひら返しともいえる「野茂フィーバー」が巻き起こった。
その1995年に起こった一連の出来事は、2024年のNumberWebでの連載で、かつての取材メモと関係者の証言をガイド代わりに、その軌跡を辿っていった。
1994年の猛牛軍団に何が起きていたのか
今回の主題は、その“革命前夜”ともいえる「1994年」になる。
ADVERTISEMENT
野茂が1990年から5年間在籍した「近鉄バファローズ」も、いまや歴史の1ページに過ぎない。オリックス・ブルーウェーブと近鉄の球団合併は2004年オフ。今では「バファローズ」の名前だけが残り、野茂が主戦場としてプレーした藤井寺球場も取り壊され、その跡地は学校に変わった。正門近くに建つ「白球の夢」と名付けられたモニュメントが、ここに「猛牛軍団」がいたという息吹を、かろうじて感じさせてくれる。
メジャーと日本との『壁』を野茂が強行突破した後、イチロー、松井秀喜、松坂大輔、そして大谷翔平と、日本球界の大スターたちは、日米間のルールに則り、日本中の激励と声援を背に、野茂の切り開いた“メジャーへの道”を歩んできた。いまや「メジャー挑戦」は、選手のキャリア選択の一つとして、当たり前の権利になっている。
その新たなる時代の流れを見るにつけ、1994年の近鉄で起こっていたことは、時代が動き出そうとしていた胎動期に、新旧の思考が真正面からぶつかり、反発し合う中で発生した巨大なエネルギーが、新たな時代の扉を開ける大きな原動力になったと解釈することもできる。
その歴史的な意義は、実に大きい。

