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会長退任・羽生善治“60代でのA級棋士”はあり得るか…残酷な「順位戦降級と50歳前後の壁」谷川浩司ら永世名人資格者はどう向き合ってきた? 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph byYuki Suenaga/Kiichi Matsumoto

posted2025/04/13 06:00

会長退任・羽生善治“60代でのA級棋士”はあり得るか…残酷な「順位戦降級と50歳前後の壁」谷川浩司ら永世名人資格者はどう向き合ってきた?<Number Web> photograph by Yuki Suenaga/Kiichi Matsumoto

谷川浩司と羽生善治。それぞれ永世名人の資格を持つ2人にあって、順位戦をどのように戦うかにも注目が集まる

「引退しないのか」

 それに対して升田は去就を明らかにせず、76年度から休場。以後は順位戦に参加せず、79年に引退を表明した。足が弱って正座が苦しく、将棋連盟に要望した「椅子対局」を断られたのも一因だという。91年に73歳で死去した。

“永世名人で初”中原がA級降級したのは52歳のこと

 中原誠十六世名人(77)は、1972年の名人戦で大山名人を破って24歳で名人を獲得した。76年には名人在位通算5期によって、永世名人の資格を取得した。82年の名人戦で敗れて9連覇で止まったものの「大山十五世名人のように、名人に復位したい」と気持ちを切り替えた。

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 中原将棋は「自然流」と呼ばれた。大河の流れのようで、矢倉戦法を多用した。80年代前半の頃に「戦い方が受け身になっている」と感じたので、積極的な相掛かり戦法を取り入れた。それによって「過激流」に変貌し、公式戦の対局で成果を挙げた。85年の名人戦で谷川浩司名人を破り、名人復位を果たす原動力になった。

 中原は93年の名人戦で米長邦雄九段に敗れた後、順位戦でA級にずっと在籍した。しかし、若い世代の台頭に押されて成績は下降していった。2000(平成12)年にA級から降級。52歳だった。A級在籍は名人在位15期を含めて29期。

 中原のA級降級は、永世名人の資格者として初のケースだった。報道陣に去就を問われると「年齢的にも将棋の内容からも、まだ指せると思っています。来期はA級復帰を目指します」と語って引退説を否定した。ただ新聞記者の中には「永世名人としてのプライドは……」という厳しい声もあった。

 また、98年に発覚した不倫問題に関連し、ある雑誌に寄せた手記では「盤上でも盤外でも、生きることは戦うことだ」と結んだ。中原はその後、将棋連盟の理事に就任したこともあり、02年にフリークラスに転出。09年に引退を表明した。

“A級以上32期”谷川が降級したのは51歳のこと

 谷川浩司十七世名人(63)は、1983年の名人戦で加藤一二三名人を破り、21歳2カ月の最年少記録(当時)で名人を獲得した。その後、85年の名人戦で中原王将に敗れたが、88年に中原名人を破って名人に復位した。

 谷川将棋は「光速流」と呼ばれ、最短の寄せで勝ちを目指した。それが美学でもあった。92年には4人目の四冠王(竜王・棋聖・王位・王将)になった。谷川時代が到来したと思われたが、その牙城に迫ったきたのが若手精鋭の羽生善治だった。

 羽生はタイトルを次々と獲得していき、谷川からも奪取した。そして96年2月、羽生六冠は王将戦で谷川王将を破り、前人未到の七冠制覇を25歳で達成した。谷川は無冠になった96年の夏、山形県天童市で行われた小学生との「100面指し」に参加した。笑顔で指す子どもたちの姿を見て、将棋を楽しむ気持ちを逆に教わったという。

【次ページ】 46歳でフリークラス転出した森内の背景

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