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「シカだけに仕方ない」125ccタイトル目前に時速170キロで鹿と激突、「5人目の日本人王者」の称号を逃した東雅雄のその後の人生
text by
遠藤智Satoshi Endo
photograph bySatoshi Endo
posted2024/12/24 11:05
2002年のブラジルGPで勝利して喜ぶ当時31歳の東。これがキャリアにおける最後の勝利となった
ブルノ郊外にあるブルノ・サーキットは深い森に囲まれており、野生動物が多いことでも知られる。とは言っても、鹿がコース上に飛び出してくることを予想する者はいなかったし、重大な事故が発生したことでセッションは赤旗中断。東は救急車で医務室に運ばれた。
プレスルームを飛び出した僕は医務室に駆けつけた。もちろん、中には入れてもらえず、状況を知るために外で待つことにした。しばらくすると、医務室から出てきたドクターが、鹿と激突した東を心配する日本人ジャーナリストの僕を中に招き入れてくれた。
ベッドに横たわって治療を受けている東は奇跡的とも言えるほど元気だった。猛スピードで鹿に激突しただけに背中の打撲など身体のあちこちを痛めていたが、骨折などの大きな怪我はなく、明るい表情で事故の瞬間を語ってくれた。
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「コースサイドに鹿がいるのが見えた。じっとこっちを見てるので嫌な予感がしたんだけど、そこから急に飛び出してきたんですよ。避けようにも避けられなかった」
思いのほか元気な東を見てほっとした僕が「シカだけに仕方ない。しっかり叱っといたから」とジョークを飛ばすと、「もう、いいかげんにしてください」とかなり本気で怒られた。
激突を機に変わってしまった流れ
東は翌日の決勝レースに出走したものの、事故の影響で12位に終わった。そして鹿との激突を境に、良好だったシーズンの流れがガラリと変わる。後半戦はなかなか表彰台に立てないレースが続き、タイトル争いからも後退。東は総合3位でシーズンを終えることになり、手にしたかに見えた王座を獲得したのは、このシーズン優勝がなかったスペイン人ライダー、エミリア・アルサモラだった。
東いわく、鹿と激突したことによる恐怖心はなかったが、開幕以来調子の良かったマシンを失ったことが、後半戦で勝てなくなった要因だという。当時はTカーを含め2台のマシンを使えたが、同じ部品を使いながらも同じフィーリングを持つマシンを仕上げることは遂にできなかった。トップを走りながら転倒したレースもあったし、まさしく「鹿の呪い」とでもいうべきだろうか。
東はその後、2003年まで現役生活を続けたが、ついにチャンピオンを獲得することはできなかった。しかし01年には、今度はポジティブなかたちで話題の人となった。
鈴鹿サーキットで開催された開幕戦日本GPに東が勝利したことで、ホンダはグランプリ通算498勝目を達成。続く250ccクラスで加藤大治郎が499勝目を挙げると、500ccクラスでバレンティーノ・ロッシが500勝を達成。この記念すべき1日はいまでも話題になることが多く、ホンダも第6戦カタルーニャGPで「500勝」記念イベントを盛大に開催したほどだった。