- #1
- #2
セリエA ダイレクト・レポートBACK NUMBER
59歳早すぎる死「ケーキ屋見習いからW杯得点王」名門移籍後は酷評→Jで93戦65発…「エロエな点取り屋」スキラッチ“究極の成り上がり人生”
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byKoji Asakura
posted2024/09/29 17:02
ジュビロ磐田時代のスキラッチ。59年で生涯を閉じたカルチョの名ストライカーの人生は、起伏と味わいがあるものだった
“シンデレラボーイ”スキラッチは、アルゼンチンとの準決勝でもこぼれ球を押し込んで先制点を決めた。しかし、後半にアタランタのFWクラウディオ・カニーヒアから同点弾を決められ、延長の末にアッズーリはPK戦で涙を飲んだ。ただし、スキラッチはイングランドとの3位決定戦で大会6点目を決めて、見事得点王とMVPを獲得した。
イタリア大会のスキラッチは、触るボール皆ゴールにしてしまうような、神がかったストライカーだった。
1990年の夏、スキラッチは世界中で誰より力強く輝いた選手であっただけでなく、自身の成り上がりストーリーによって、国中の地方に生きる少年や若者たちに夢を与えた。
スキラッチのように、いつかは自分も世に出て大きいことをやってやろう。スキラッチはイタリア中に数多あった青雲の志のシンボルだったのだ。
ユーベでバッジョと名コンビも侮辱され…
ただし、スキラッチの代表歴はW杯の翌年、1991年の9月に通算7ゴールで終わる。実質、代表として活躍したのは自国開催W杯の期間のみといってもいい。
イタリア大会後、在籍していたユベントスではバッジョと「まるで双子のように呼吸ピッタリ」と言われたが、チーム戦術に縛られ精彩を欠くようになった。
マンションの入口に南イタリア出身者を揶揄する侮蔑語がペンキで落書きされていたことも1度や2度ではない。当時の現地紙の論調を読むと、文教都市トリノやファッションの都ミラノでは、スキラッチを田舎出身の粗忽な男と侮る向きがあったらしい。
心機一転、92年にインテルへ移籍するも1年目にウルグアイ代表FWルベン・ソーサ、2年目にはオランダ代表FWデニス・ベルカンプとのポジション争いに苦しんだ。当時の指揮官オズバルド・バンニョーリから構想外とされ、私生活では最初の妻リタとの関係が破綻していた。
傷心のスキラッチに、日本の浜松からオファーが届いたのはそんなときだった。〈つづく〉