- #1
- #2
セリエA ダイレクト・レポートBACK NUMBER
「余命は1年もないと医者が」末期ガン…76歳で死去の名将エリクソン最期の古巣行脚「おかえり監督!」ラツィオサポが大歓迎したワケ
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byKaoru Watanabe/JMPA
posted2024/08/28 11:02
2010年南アフリカW杯でのエリクソン。クラブ、代表と数々のクラブで指揮を執った名伯楽だった
一躍注目を浴びた青年指揮官エリクソンは、欧州大陸を南下しポルトガルリーグを連覇すると、当時の世界最高峰セリエAへ乗り込んだ。
当初、イタリアで有効な監督ライセンスを持ってなかったせいで、ローマやフィオレンティーナではTD(テクニカル・ディレクター)の肩書でベンチに座った。采配と手腕でコッパイタリアを制し、カルチョの伝統国でもカップ戦の達人として一目置かれるようになった。
49歳だった97年の夏、人生の転機が訪れる。当時、投資家の会長クラニョッティが凄まじい勢いでチームの強大化を進めていた古豪ラツィオからの監督オファーだ。
ただし、クラニョッティから電話をもらったとき、エリクソンは前日にイングランドの別クラブと契約したばかりだった。
「断ろうとしたら、会長は『問題ない。私に任せなさい』と言うんだ。そして彼は瞬く間に法的問題をクリアしてくれた。あれには驚いた」
ラツィオに数々のタイトルをもたらした
ラツィオには資金と野心が唸っていた。
74年の初優勝以来、ビッグタイトルに見離されてきたクラブだが、92年に新会長となったクラニョッティは長きものに巻かれない個性派プレーヤーたちを集め、名門クラブなにするものぞという下剋上の機運を作り上げた。「大望をつかめる算段があった。だから(先の契約を破棄してでもラツィオの)オファーを受けたのだ」と、後にエリクソンは笑顔で白状している。
彼の手綱さばきで、ラツィオはコッパ・イタリアとイタリア・スーパー杯を2度ずつ制し、UEFAカップウィナーズ・カップでも優勝。そして、00年にはクラブ悲願のスクデットを26年ぶりに獲得した。エリクソン自ら「私が率いた最強チーム」と定める99-00シーズンのラツィオは“ドリームチーム”と呼ばれた。
ラツィオ訪問で「おかえり監督」「がんばれズベン!」
前述したクラブ訪問。それぞれの地に思いはあれど、やはり彼のサッカー人生行脚の締めくくりはイタリアの永遠の都以外にない。7つの国内外タイトルを獲得したラツィオでの3年半こそ、華々しいキャリアの黄金期だからだ。