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「宮部藍梨がいるからリベロを2人選べた」16歳で初代表、アメリカ帰りの秘蔵っ子が初五輪…天才少女が“最強のユーティリティー”に変貌したワケ
text by
田中夕子Yuko Tanaka
photograph byYohei Osada/AFLO SPORT
posted2024/07/06 11:02
12人のパリ五輪代表メンバーに名を連ねた宮部藍梨。本大会中に26歳の誕生日を迎える
聞けば、宮部自身、トスに対しても、起用法に対しても「そもそもこだわりがない」と笑う。
「トスに対してもともと言わないし、言えないタイプなんです。ミドルをやり始めてまだ2年ちょいぐらいで、テンポが遅いのも自分が一番わかっている。このまま遅くてもいいのか、もっと速くすべきなのか、それは私が決めるよりも、監督やセッターがどういうコンビを組み立てていきたいかによって変わる。だから要求ではなく『どうしたらいい?』とストレートに聞きます。そこで速く入ってと言われれば入る努力をするし、ゆっくりでいいよと言われたらゆっくり入るし。逆に『Bパスでもこれぐらいの高さに上げてくれたら打つよ』と伝える。これが私だ、なんて言えるものは、まだまだないので」
転機は2022年。2年制の米サウスアイダホ大学からミネソタ大学へ編入し、少しずつスタメン出場の機会を増やしていた頃、5年ぶりに日本代表の指揮官に復帰した眞鍋監督から声がかかった。
金蘭会高校時代の2015年4月に日本代表に初選出された宮部であっても「バレーボールを辞めようと思っていたぐらい」と、壁にぶち当たる時間もあった。しかし、ミドルブロッカーという新たなポジションへの抜擢は、宮部の腕の長さやアメリカ留学で磨いたブロックスキルが武器となり、才能を開花するきっかけとなった。
セリンジャー監督との出会い
日本代表での経験と共に、ヴィクトリーナ姫路で指導を受けるアヴィタル・セリンジャー監督の存在も大きかった、と宮部は言う。
「ミドルとしてこうしなさいと言われることはほとんどなくて、むしろ求められるのはスパイカーとしてもっとこうしてほしい、ということばかり。セリンジャーさんの意味合いとしては『君はミドルだけれど、ミドルからだけ打つのではなく、ライトからもレフトからも打ってほしい』と。
もともとずっとサイドだったので、レフトからもライトからも打っていたし、姫路でも打つ機会はあったので、自分としても苦ではなかった。むしろレフトが崩れたら私がレフト側に寄って、ダブルのトスを打てばいいし、ライトが崩されたら私が回ってライトから打てばいい。プレーや動きの幅だけでなく、試合中に頭の切り替えもスムーズにできるようになりました」