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3年7億円超→年俸500万円になっても“36歳ドジャース挑戦”…生々しい格差を斎藤隆が語る「あのままいたら6年間マイナー契約でした」
text by
間淳Jun Aida
photograph byKoji Asakura
posted2024/07/07 17:00
06年、ドジャース時代の斎藤隆。36歳でのメジャー挑戦における壮絶なサバイバルとは
「シーズンオフになったらメジャーに挑戦したい」
シーズン後のFAを希望すると、球団はすんなり了承した。
ただ、契約する米国の球団がなかった場合、ベイスターズに戻る“温情”はかけられなかった。斎藤は退路を断たれたのだ。動画サービス「Number PREMIER」で明かしているが、斎藤は元々、メジャーに強い憧れを抱いていたわけではない。
ベイスターズ時代の2000年、マネージメント契約していた吉本興業のつながりで、当時エンゼルスでプレーしていた長谷川滋利氏の自主トレに参加。温暖で景色も良いエンゼルスの本拠地でブルペン投球し、クラブハウスやトレーニングルームを見学した。
以前は年俸数億円オファーが500万円マイナー契約
メジャーの環境に感激した斎藤だったが、プレーするイメージは湧かなかった。自分とは関係のない別の世界――その気持ちが変化したのは、2002年オフだった。初めてFA権を取得して、将来と向き合う機会が訪れた。
斎藤は2000年まで先発ローテーションの軸を担い、守護神に転向した2001年から2年間は計47セーブ記録している。結果的にベイスターズ残留を選んだが、メジャー移籍も選択肢の1つだった。実際、数球団から「先発5、6番手で年俸数億円」のオファーが届いていたという。
だが、3年間で状況は一変した。
2度目のFAとなった2005年オフ、メジャー契約は1つもない。代理人が奔走し、ようやく取ってきたのは年俸5万ドル、当時のレートで約500万円ほどのマイナー契約だった。
身近な人たちは誰もが反対したが、斎藤の決意は揺るがない。選択肢はメジャー挑戦だけ。ドジャースとマイナー契約を結んだ。
「誰に頼まれたわけでもありません。最後は一番高いところを目指して野球を終えたい気持ちだけでした。マイナー契約しかなかったので、斎藤隆という選手がいたなと忘れ去られるくらいの覚悟で米国へ行きました」
キャンプで1人、また1人と同僚が去っていく厳しさ
斎藤は覚悟を持って海を渡った。だが、マイナー契約の現実は厳しい。