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「お母さん、早く離婚して」“厳しすぎる父”に思わず本音がポロッと…柔道が嫌いだった斉藤立のヤンチャ少年時代「母を悩ませた“最強の遺伝子”」 

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石井宏美

石井宏美Hiromi Ishii

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photograph byMATSUO.K/AFLO SPORT

posted2024/05/16 11:01

「お母さん、早く離婚して」“厳しすぎる父”に思わず本音がポロッと…柔道が嫌いだった斉藤立のヤンチャ少年時代「母を悩ませた“最強の遺伝子”」<Number Web> photograph by MATSUO.K/AFLO SPORT

3月8日、全日本合宿で22歳の誕生日を祝われた斉藤立。男子100キロ超級の代表としてパリ五輪に臨む

 1989年に現役を退いた仁さんは、その後、日本代表男子の監督を務め、2012年からは全日本柔道連盟強化委員長として後進の育成に尽力した。母校の国士舘大では2007年から体育学部の教授を務めており、拠点を東京に置いていた。息子たちを三恵子さんの実家がある大阪に残して多忙な生活を送る仁さんにとって、唯一のやすらぎだったのが幼い息子たちと過ごす時間。特に柔道を指導することは大きな生きがいだった。

 しかし、柔道のことになるとスイッチが入る。三恵子さんは「“鬼の斉藤”と変貌した」と振り返る。

 三恵子さんに「5年間だけ自由にさせてほしい」と伝えると、まずは自宅の和室の畳をすべて柔道用に張り替えた。道場での稽古は稽古、それ以外にも自宅でみっちりと兄弟をしごいた。

 ミリ単位で踏み出す足の位置までこだわり、出来るまで何度も何度も反復練習。ときにはベルトやスリッパが息子たちに飛び交うことも。

「暴言も吐いていたので、これはまずいと、通報されないように家の窓を全部閉めたりしたこともありました(笑)。1つクリアできても、『次はこれをやってみろ』と教えることがだんだん高度になっていって、そしてさらに2時間、3時間と稽古が続く。家の前にある電柱を使って打ち込みさせられたこともありました。一郎も立も怒られては泣き、泣いてはまた主人に怒られて……」

 父のあまりの厳しい練習に「その辺にしておいたらどう?」と助け舟を出すが、今度は「うるさい、黙ってろ」と三恵子さんが怒られ、指導はさらに厳しさを増した。

「お父さんはいつ東京に帰るの?」

 当時、仁さんの熱血指導に、斉藤は毎日のように「辞めたい」と母に泣きついていたという。

「お父さんはいつ(東京に)帰るの?」

 学校から帰宅後、玄関で仁さんの靴を見つけると、家には上がらず、逃げるように学校へと戻っていくこともあったほどだった。

「だから2人には『お父さんもあんたたちに強くなってもらいたいから一生懸命やってんねんで』『あともうちょっとでお父さんはお仕事で東京に帰るからね』とよく伝えてましたね」

【次ページ】 斉藤の本音「正直、柔道が嫌いだった」

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