Number ExBACK NUMBER
「実際、ボロボロ。右肩をぶっ壊され…」アントニオ猪木が屈辱の敗北…“シュツットガルトの惨劇”を経て、ローラン・ボックがイノキに感謝した真相
text by
小佐野景浩Kagehiro Osano
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2024/05/17 11:04
1978年11月25日のアントニオ猪木vsローラン・ボック
試合を終えた猪木は控室で「4分6分ぐらいだろ? でも、それでいいんだ。ボック、良かったろ?」と新間氏に語ったそうだが、後にボックも「新間、ミスター・イノキはヨーロッパにセンセーションを起こしてくれた。プロレスはヘーシンクが言ったようにショーだとか八百長だと言われていたけど、彼と戦うことによってプロレスは真剣にファイトするスポーツだと我々の国では認められた」と感謝していたという。“惨劇”と呼ばれた表面上の戦いとは別に、この試合を通じて猪木とボックの間にはレスラー同士にしか理解できない心の繋がりが生まれたようだ。
木村健悟を秒殺…ボック衝撃の日本デビュー
この欧州遠征は猪木の身体に大きなダメージを残した反面、欧州マットとのパイプが強固になり、新日本プロレスにとっては多大なプラスをもたらした。
ボックとこのツアーを共催したプロモーターのポール・バーガーはIWGP実行委員となり、オットー・ワンツは第1回IWGPリーグ戦に欧州代表として出場。ワンツが主宰するCWAは新日本のヤングライオンたちにとって武者修行の場となり、坂口征二や藤波辰爾がビッグマッチに招聘されるなど後々まで新日本と深い関わりを持った。
そして、ボックは81年7月に初来日し、初戦で木村健悟をダブルアームスープレックスで秒殺して衝撃の日本デビューを果たす。さらに長州力を相手に3分半で完勝するなど実力者ぶりを発揮。2度目の来日ではラッシャー木村やタイガー戸口(キム・ドク)にも圧勝し、タッグマッチながら藤波もKOした。
「試合後、長州が“俺は仕掛けてないのに、やってきた!”と怒っていたよ。だったら、自分もやればいいのに、たぶん長州も萎縮していたんだと思う」
心臓発作、脱税で服役…ボックの“その後”
猪木とのシングル再戦は、翌82年の元日興行で実現。この試合は5分10ラウンドで行われたが、3ラウンドにエプロンからロープ越しにスリーパーホールドを仕掛けたボックがレフェリーの制止を振り切って反則負けに。結果的に、これがボックにとって最後の来日になってしまった。