井上は相手に向かっていったが、パンチは打たなかった。フィリピン選手は背中を向けたまま、4歩、5歩と歩き、右手で腹を押さえたままコーナーでしゃがみ込んだ。

　中村が言う。

「あの倒れ方はドネア戦と同じです。私はね、井上選手に助けられたと思っているんです。彼はゆっくり相手との距離を縮めていきながらもパンチは打たない。デビュー戦の1ラウンド目ですよ。横から打ったり、ばーっと攻めていく選手が大半だと思います。でも、戦闘態勢に入っていながら、冷静にじっと相手を見ているだけなんです。あれは間違いなく井上選手のファインプレー。助けられましたね」

　その後、4回に井上は左ボディでダウンを奪い、2分4秒KO勝ちでプロ初戦を飾った。

　試合を終え、中村は感心した。

「すごく落ち着いている選手だな。精神面からして規格外といえるのかもしれない」

デビュー戦を4回KO勝利で飾った井上尚弥。中村勝彦レフェリーは「新人離れした落ち着き」に驚嘆していた　©Hiroaki Yamaguchi

批判に晒され、生計も立てられない“レフェリーの仕事”

　試合を円滑に進める「黒子」は選手の安全面やダメージを第一に考え、試合をストップするときのみ、観客の視界に大きく入ってくる。普段はリングにいることをあまり感じさせないが、誰よりもボクサーを間近で見ている。

　一方で、レフェリー・ジャッジは苦労が絶えない。公平・公正に裁くのが当然。褒められることはまずない。わずかのミスも許されず、試合のストップが早ければ、「もっとやりたかった」「止めるのが早すぎる」と批判される。

　しかも、名誉職とされ、レフェリーだけでは生計を立てられない。中村は調査会社の社長を務めている。審判員の報酬はノンタイトル戦の興行で1万2000円。その興行で何試合レフェリーやジャッジを務めても額は変わらない。興行の中に日本タイトルマッチがあれば、レフェリーは1日2万円、ジャッジは1万5000円となる。

吐血しても「やらせてほしい」…ボクサーへの尊敬の念

　中村は東京・広尾に店を構える寿司屋「玉寿司」の長男として、1965年に生まれた。具志堅用高がWBA世界ライトフライ級王者ファン・ホセ・グスマン（ドミニカ共和国）に挑んだ世界戦を見て、ボクシングにのめり込んだ。

【次ページ】　「出血も酷いし、顔の形相も変わっている。それでも…」