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岡田彰布「キャバレーで熱唱していた」少年時代…阪神を“1年で優勝させた男”は何者か? 一般入試で早稲田合格、コーチに激怒「頭に入れてこい」
posted2023/11/03 11:01
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph by
Makoto Kenmizaki
阪神で野村克也、星野仙一、岡田彰布など8人の監督に仕えた“伝説のスコアラー”三宅博(82歳)は幼少期から現在に至るまでの岡田を知る貴重な人物である。タイガースを2度目の日本一に導こうとしている指揮官の決断力、鋭い感性のルーツを紐解く――。(全3回の2回目/#1、#3へ)※敬称略。名前や肩書きなどは当時
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「岡田と初めて会ったのは幼稚園の頃だったかなあ」
1957年、岡田彰布は大阪・玉造に誕生した。紙加工工場を営む父親の勇郎は、タイガースの熱心な後援者だった。60年に倉敷工業高校からタイガースに入団した三宅博が虎風荘で寮生活を送っていると、勇郎が頻繁に岡田を連れてきた。
「お父さんは選手たちと喋っていて、岡田は何もすることなくボサーッとしていた。私が『僕、バット振る?』と聞いたら、『うん。打ちたい』と。ネットが張られてティー打撃ができる屋上に連れて行ったんよ」
岡田彰布5歳「もっと打ちたい」
ケースに置いてあるプロのバットを岡田はじっと見つめていた。三宅が「重いけど振ってみるか」と言うと、少年は笑顔で頷いた。
「驚いたのはね、最初にバットの一番振りやすい所を持った。野球に対する感性があったんよ。下から硬式球を放ったら、上手いこと当てる。見事に全球打ち返した。まだ5歳よ。数十分経ったから『やめようか』と声を掛けたら、『もっと打ちたい』と帰らない。才能がある上に、野球の好きな子供だったな」
小学校で“越境入学”「草野球で子どもが1人だけ…」
勇郎は息子をタイガースの選手にしたかった。玉造から今橋の愛日小学校に越境入学した彰布は近所に友達がいなかったため、父が知り合いの大人を集めて草野球チーム『大阪紙工クラブ』を作った。1965年の引退後、鉄鋼商社の営業マンに転身していた三宅も駆り出された。
「岡田がピッチャーで、私はよくキャッチャーを守りましたな。教えてもいないのにカーブを覚えてね。小学生で緩急を使った配球をしていた。それだけ頭が良かった。打ち取るたびにニコッーと笑っていたなあ。味方も相手も全員大人の中に、子供が1人だけいた」