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“育成の星”《オリックス・東晃平》恩師が語る「超マイペース高校時代」スカウトが見守る中で「普通は思い切って直球を投げる。でもアイツは…」
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph byJIJI PRESS
posted2023/10/20 17:00
育成出身ながら今季は負けナシの6勝を挙げ、オリックスのリーグ制覇にも貢献した東晃平。初のCSではどんな投球を見せるか
ただ、高校時代は表舞台にはあまり恵まれなかった。
エース番号を背負った2年春は地区大会で敗退し、2年夏は初戦の明石高戦で先発して6回1失点とまずまずのピッチングを披露するも、2回戦でチームは社高にコールド負け。2年秋、3年春も地区大会で敗れて県大会に進めなかった。さらにその3年春で敗れた育英戦で腰椎分離症を発症し、以降しばらく実戦から離れることになった。
「コルセットで腰を固定してトレーニングをずっとやっていましたけど、6月中旬からようやくピッチングができるようになって、下旬の履正社との練習試合で3イニングのみ登板できました。県大会で、球場で投げたのは3年の夏だけなんです」
夏の大会直前の貴重な登板機会が、前述のスカウトが視察した練習試合だった。
県大会では4回戦で関西学院を相手に6回途中まで3失点と粘投するも、チームはそのまま敗れた(1-3)。初戦の柳学園戦、2回戦で前年代表の市尼崎戦といずれも先発し、市尼崎戦は2失点で完投勝ちしている。だが、そこまで強烈なインパクトは残せないまま、高校野球生活を終えることになった。
監督が大学進学を進めなかった理由は…?
進路をプロに絞り込んでいた中で、ここまでアピールの機会が少ない場合はほとんどの指導者は進学を勧めたくなるはずだ。だが、岡本監督の頭の中には進学という選択肢は全くなかった。
「色んな大学から声を掛けていただいたのですが、大学に行っても性格的にどこまで持つのか分からないと思って……。2月に入寮しても、3月に帰ってくるんじゃないかと(苦笑)。東は学生の中で過ごすより、大人の世界に早く入った方が良いと思ったんです」
やんちゃさもあった東を、同世代の中で“泳がせる”ことにいささか不安があった。
育成でもいいからプロに行きたいという本人の意見もあり、プロ志望届を提出。そして育成2位でオリックスから指名を受ける。