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“羽生にらみ”に、年上の挑戦者が思わず「この場から離れたい…」羽生善治全冠制覇を許した“終盤の魔術師”が語る「にらみの効力」
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byTadashi Shirasawa
posted2023/10/17 06:01
盤上を鋭い視線で見つめる「羽生にらみ」。7冠を目指す羽生善治は、代名詞とも言えるこの動きをして、挑戦者を恐れさせた
《この場を離れて、ひとりになりたい》
迷いの中で切実にそう思った。
森は対局中、頻繁に席を立つことでも知られていた。
《これはなかなか信じてもらえないと思うんですが、私は念力があるんです。それで相手を間違えさせることができる。勝負師同士だから通じるものです。羽生さんもそういう波動を出している。私が対局中に席を外すのは相手の念を受けないためです》
羽生さんの睨みは効くんです
いつも森は席を外すと、控室でひとりゴロンと横になる。部屋にはモニター用のテレビが置いてあり、対局室で長考している相手が映っている。その画面に向かって念を送るのだ。実際に「まちがえろ!」と画面へ声を発して、対局者が終盤の致命的な指し間違えをしたこともあった。
だからこの夜も、森は羽生が発する念を避けたかった。「羽生睨み」と呼ばれる、あの視線から逃れたかったのだ。
《羽生さんの睨みは効くんです。それで指し間違えてしまうことがよくある。だからトイレでもどこでもいいから部屋を出て、そこで考えたかった》
ただ、森には持ち時間がなかった。与えられた5時間のうち2分しか残っていなかった。勝利が近いのに、詰め筋が読みきれない。席を外すほどの時間もない。結局、森は残り時間をすべて使い、馬を動かした。
魔術師が魔術を奪われた瞬間
それが致命傷になった。
《そこで一手緩んでしまった。甘い手を打ってしまったんです》
羽生はそれを待っていたかのように、あっという間に優劣差を埋めた。そして森を追い込み、緩みなく詰めた。
魔術師が魔術を奪われた瞬間だった。
森は思った。おそらく羽生は自分と同じように、方程式を飛び越えて解にたどり着く能力を持っている。ならば、あの場面も詰め筋が見えていたのではないだろうか。
羽生もまた、魔術師であり勝負師だった
《対局の後に訊いてみたんです。そうしたら、やはり詰め筋がわかっていたと。まな板の上に載せられた鯉のような心境だったと、そう言っていました……》