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「羽生さん、あなた名人だろう! いい加減、投げるべきだ」羽生善治を追い詰めるも、まさかの大逆転負け…森下卓が明かす「信じられないミス」の真相
posted2023/10/17 06:00
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
KYODO
1995年。前年度にあと一冠まで迫りながら七冠制覇を逃した羽生善治は、六冠を防衛し、再び未踏の境地に挑むべく「七冠ロード」を疾走した。行く手を阻まんと盤上に散った挑戦者、森下卓の脳裏に焼き付く、敗戦の苦み。記憶を辿って垣間見えた、天才の凄みとは。(初出は2020年9月3日発売Number1010号掲載、「羽生を止めろ。七冠ロード大逆転秘話」、肩書はすべて当時)
もう勝負はついている。なぜ、投了しないのか…
将棋盤の上に羽虫が舞っていた。どこから迷い込んできたのか。視界の中を黒い点が2つ、3つ、いったり来たりしている。森下卓八段はその些事に苛立っていた。
盤の向こうには羽生善治がいた。大勢が決した盤面を、24歳の六冠王がじっと睨んでいる。森下は思った。
《もう勝負はついている。なぜ、投了しないのか……》
普段なら気にならない小さな来客が妙に鬱陶しく感じられたのは、元をたどれば、羽生のその不可解な粘りのためだった。
1995年4月8日、第53期名人戦は第1局の2日目を迎えていた。
京都は洛北の森、宝ヶ池プリンスホテルには異様な熱があった。
メディアも世の中も、羽生の七冠を後押し
《メディアも世の中も、羽生さんの七冠を後押しするというか……。対局者としては疎外感のようなものを感じていました》
当時の棋界には竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖と7つのタイトルがあり、そのうち6つを羽生が保持していた。
わずか半月前、前年度の終わり、羽生は棋王位に挑んできた森下をストレートで退けて六冠を守り、前人未到の七冠制覇をかけて谷川浩司の持つ王将に挑んだ。3勝3敗で迎えた最終局に敗れて夢は潰えたが、新年度となり、六冠を防衛しながら再度、谷川に挑戦できれば、また夢の七冠への道が開かれるという状況だった。
番狂わせは棋士の醍醐味である
歴史上例のない挑戦は、ジャンルを超えたニュースとなり、これまで将棋に関心のなかった層までをも取り込んだ。色白でサラサラ髪。理知的で清潔感のある羽生のルックスは女性層も惹きつけ、棋界には空前のフィーバーが巻き起こっていた。