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ガリガリなジーコ少年が「サイボーグ選手」に…「体がみるみる大きくなり、筋肉も」クラブ世界一へと上り詰めた“肉体改造”とは
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byMark Leech/Offside-Getty Images
posted2023/09/24 17:01
1981年のジーコ。フットボール王国ブラジルで愛されるスーパースターは、どんなキャリアを描いてきたのか
「その通り。ただ、実を言うと、このプロジェクトはフラメンゴがクラブとして行なったものではない。フラメンゴで仕事をしていたドクター、理学療法士、フィジカル・トレーナーらが私の才能を見込んで、当時彼らが関係していた医療施設などを無償で使わせてくれた。また、当時、クラブの役員だったジョルジ・エラル(注:後に会長)が自費で交通費や食費を援助してくれた」
――この肉体改造計画は、相当にハードだったようですね。
「朝5時半に起き、鉄道とバスを乗り継いで市の南部にあるフラメンゴのクラブへ行ってU-17の練習に参加し、バスで市のセントロ(ダウンタウン)にあった高校へ行って授業を受け、それからまたバスに乗ってフィジカル・トレーナーが関係していたスポーツジムで筋肉トレーニングを受けた。その間、毎日、栄養たっぷりの食事を5回摂った。
これを3カ月続け、1カ月ほどインターバルを置いてからまた3カ月続けた。効果はてきめんで、体がみるみる大きくなり、筋肉もついた」
ポケットマネーで援助してくれた恩人への感謝
――当時、メディアはあなたのことを「サイボーグ選手」と呼びました。肉体強化の効果は?
「フィジカルコンタクトでも負けなくなり、自分の技術をもっと有効に発揮できるようになった」
――ただ、このジーコ・プロジェクトの前後も、クラブへ練習に行くための交通費や食費が払えず、練習へ行けない日もあったと聞きました。あなたのお父さんは非常に優れた紳士服の仕立て屋で、有名人も顧客にいたと聞きました。また、上の兄3人もプロ選手だったわけですが――。
「当時のプロ選手は今とは比較にならないくらい給料が少なく、自分が生活するので精いっぱいだった。また、子供が多かったから、父も一家を養うのは大変だった。そこで、ジョルジ・エラルがポケットマネーで援助してくれた。彼のお陰で、僕は選手として成長し、1971年、18歳でフラメンゴとプロ契約を結ぶことができた」
78年W杯はレギュラーではなかったが自信になった
――以来、たちまちレギュラーになり、やがて中心選手。1972年と74年のリオ州選手権優勝に貢献し、25歳で1978年のW杯に出場。チームは1次リーグを突破し、2次リーグで地元アルゼンチンと勝ち点で並んだものの、得失点差で及ばず2位。3位決定戦でイタリアを下して、3位でした。